電《でん》撃《げき》!! イージス5 Act.㈼ ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)文章|認《にん》識《しき》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから7字下げ] -------------------------------------------------------  カノジョたちから「ひーくん」と呼ばれる僕の日常。  それはつまり、カノジョたちの食事をつくり、宿題をみて、ときには慰め……ようは一緒に暮らしながら──  謎の侵略者から世界を守ることだった。  いったいどうしてこんなことになったのか皆目見当もつかないが、今以上に説得力をもつ状況はこの世界になにもない。……まあ、こんな学生生活もありなのかもな。  巻末には「電撃萌王」連載時も大好評だった、後藤なお氏による1ページ漫画「裏・いーじすまんが」を完全収録!  谷川流が贈る、ハートウォーミング�萌え�ストーリー! ISBN4-8402-3173-7 CO193 ¥530E 発行●メディアワークス 定価:本体530円 ※消費税が別に加算されます 谷《たに》川《がわ》 流《ながる》 1970年生まれ。兵庫県在住。『涼宮ハルヒの憂鬱』で第8回角川スニーカー大賞<大賞>を受賞。2003年6月10日、同受賞作と電撃文庫『学校を出よう!』シリーズ第一作との二作同時刊行デビューを飾る。最近は週に一回程度、神戸と東京をいったりきたりで、疲労困憊中。 【電撃文庫作品】 学校を出よう! Escape from The School 学校を出よう!㈪ I-My-Me 学校を出よう!㈫ The Laughing Bootleg 学校を出よう!㈬ Final Destination 学校を出よう!㈭ NOT DEAD OR NOT ALIVE 学校を出よう!㈮ VAMPIRE SYNDROME 電撃!!イージス5 電撃!!イージス5 Act.㈼ 絶望系 閉じられた世界 イラスト:後《ご》藤《とう》なお 本作のほか、富士見ファンタジア文庫『ザ・サード』シリーズ(著:星野亮)のイラストや、「電撃萌王」などのエンターテイメントビジュアル誌にて活躍する気鋭のイラストレーター。最近、お引っ越ししたご様子。 カバー/暁印刷 [#改ページ] 第六話『イミテーション・ラブ』  その日の夕方、僕はいつものように晩飯の用意をしていた。  水を張った鍋《なべ》をコンロにかけながら、ふと考える。いったい、自分は何のためにこの爺《じい》さんの屋《や》敷《しき》に来たんだったっけ?  当初の目的は、実家より大学に近いこの家で下宿生活を送るためだった。確《たし》かそうだ。  ついでに、両親から爺さんのお目《め》付《つけ》役《やく》を言い渡されていた。半ば隠《いん》遁《とん》生活を送っていた爺さんは、放っておくと余《よ》人《じん》にはうかがい知れない理由によって、ちょくちょく奇行に走るのである。  だが、大学入学を前にした僕が屋敷を訪れた時、すべては手遅れだったことを知った。爺さんはとっくに奇行に走った後であり、あげくの果てに行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》にまでなっていた。いまごろ、この世界ではないどこかをフラフラと放浪しているはずである。一度、幽《ゆう》霊《れい》みたいな姿で戻ってきたものの、すぐに消えてしまって、それっきり音《おと》沙《さ》汰《た》はない。  爺《じい》さんと一匹の子犬が五次元だか六次元だかを行ったり来たりしている姿を想像しようとして、しばらく努力してみたのち、あきらめた。文系の僕には無理な話だ。  それよりはできることに集中しよう。早い話が、今や僕がこの屋《や》敷《しき》にいる最大の理由、それは世界を破滅から守るために集《つど》った五人の少女たちの空腹を満たしてやることだ。  他《ぽか》にもあったような気がするが、正直言ってそれ以外に大したことをしておらず、まあ、それくらいなら僕にもなんとかできる。  僕は鍋《なべ》の湯加減から目を離《はな》し、横にいるアシスタントの手もとを覗《のぞ》き込む。  今日《きょう》の調《ちょう》理《り》手伝いは凌央《りょう》である。 「…………」  背が届かないため、自作の踏み台に乗った凌央は、普《ふ》段《だん》通りの無言と無表情を押し通しながら黙《もく》々《もく》と包丁を動かしていた。  手伝いと言ってもあまり複雑なことはさせられないので、サラダ用のキャベツの千切りを頼んでいるだけだったが、適当なところでストップをかけないと凌央はいつまでもキャベツを刻み続け、粉末になるまでそうしているので注意が必要だ。  ちなみに本日のディナーは名付けて手抜きスパゲッティ。タラコのふりかけとマヨネーズを混ぜ合わせ、茹《ゆ》でたパスタに絡《から》めるだけでいいという、手軽に作れて味もそれなりな即席タラコスパは僕の得意メニューの一つである。何より原価が安く済むのがいい。 「あ、そのへんでいいよ」  凌央は機《き》械《かい》的《てき》に上下させていた包丁を止めた。ゆっくりと僕を見上げて、 「…………」  またゆっくりとうなずいてから、次の指示を待つようにじっと固まった。 「後はトマトを六等分して、それからレタスを剥《む》いて洗ってくれる?」 「…………」  凌央は瞬《まばた》きしない目で僕を見つめながら、指示を反《はん》芻《すう》するように首を傾け、 「…………」  やはり無言のまま、次の行動に移った。まな板に置いてあったトマトを几《き》帳《ちょう》面《めん》なまでの正《せい》確《かく》さで切り分けていく。実にゆっくりと。  その間に僕は大鍋にぶち込んでグツグツいってるスパゲッティの茹で具合を確認した。  そうして火加減を調《ちょう》節《せつ》していると、 「ひーくん」  背後から明るい声がかけられた。振り向いた目の前に、あろえがノートと数学の教科書を抱えて微笑《ほほえ》んでいた。 「宿題、見て欲しいんだけど。なんかもう、すごくわかんない」  あろえは教科書を広げ、グラフの描かれた練習問題を指し示した。 「あれ? 琴《こと》梨《り》に教えてもらってるんじゃなかったの?」  夕食の準備ができるまで、あろえと埜《の》々《の》香《か》はリビングで琴梨に勉強を教えてもらうことになっていたはずである。 「だって」  と、あろえは可愛《かわい》らしく唇を尖《とが》らせた。 「琴梨ちゃん、テレビに夢中でちっとも教えてくんないよ。懐《なつ》かしアニメの再放送見て笑ってるだけー」  そのセリフを裏付けるように、ダイニングと地続きになっている居間から、琴梨のけたたましい笑い声が響《ひび》いてきた。心の底から楽しんでいるような、何の煩《ぼん》悩《のう》もないであろう笑い声である。平和だ。 「しょうがないな」  恐る恐るその問題を眺めた。なにしろ高校二年の二学期から数学と縁《えん》を切り、文系の道を志した前科を持つ僕である。 「ううむ」  思わず唸《うな》ってしまう。正直、よく解《わか》らない。死ぬほど考えたら思い出すかもしれない公式を当てはめたら解けるような気もしたが、思い出すのも恐ろしい。昔から数学とは相性がよろしくないのだ。でなければ縁など切らない。 「ガニメデに聞いてみたらどうだ?」  自称超高性能人工知能だ、中学レベルの数学など簡《かん》単《たん》に解いてしまえるだろう。と思ったのだが、 「ガーくんはね、何だかすんごく難《むずか》しい解き方ばっかり教えてくれるんだけど、どうしてそれで答えが出てくるのかがわかんないの。困ったねえ」  ぜんぜん困っているようには見えない笑顔《えがお》で言いながら、あろえは教科書を開いたまま僕にキラキラと輝《かがや》く瞳《ひとみ》を向けている。 「巴《ともえ》は?」  僕は年長組の残る一人の名を口にした。琴梨と同じ高等部の彼女なら、中等部二人の宿題を見てやることだってできるだろう。 「巴ちゃん?」  あろえはニコニコと、 「巴ちゃんなら自分の部屋でなんかしてるよ。帰ってきてからずっと」 「珍しいな、巴が部屋に引っ込んでいるなんて」  僕が大学から戻ってくる時間には、いつも巴は居間に陣取っていて、手持ちぶさたに新聞でも読んでいるのが慣《な》れ親しんだ日常だった。あまりに日常すぎて、てっきり今日《きょう》もそうだと思っていたのだけど。  僕はさも鍋《なべ》から手が放せないという振りをしながら、 「きっと落ち着いた環《かん》境《きょう》で今日《きょう》の授業の復習でもしてるんだろう。そうだ、部屋まで行って教えてもらったらどうだ?」  とにかく僕はあろえの期待に応《こた》えられそうにない。ここは現役の高校生に任せようと、見た目では勉強できそうな最年長女子を推《すい》薦《せん》してみたところ、 「そうかなあ。巴《ともえ》ちゃんが勉強してるとこなんか見たことないけど」  あろえはやんわりと問題発言をして、 「琴《こと》梨《り》ちゃーん、真《ま》面《じ》目《め》に教えてよー」  スリッパをパタパタ鳴らしつつリビングへと戻っていった。  とりあえず恐怖の数学から解放されて僕もホッとする。  その間、アライグマのようにレタスをじゃぶじゃぶ洗っていた凌央《りょう》がすべての作業を終える頃《ころ》には、スパゲッティの茄《ゆ》で加減もちょうどいい具合になっていた。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  ダイニングのテーブルにすべての料理が載せられる。いつもなら食器の音を聞きつけた五人たちは三々五々に集合して、後は「いただきます」という唱和が一斉に上がるタイミングなのだが、どうしたことか、 「あれ、巴は?」  髪の長い姿がない。どこに隠れているのかと僕がキョロキョロしていると、 「呼んでくるね」  あろえが気を利かせて二階へと上がっていき、すぐに降りてきて告げた。 「今はいらないんだって。それどころじゃないんだって。ラップして置いとくねって言っておいたよ」 「いらないんならあたしが食べるよっ!」  すかさず立ち上がった琴梨の口に、凌央がサラダのトマトをポイと放り込んだ。 「……………」 「むぐう」  目を白黒させて口をもぐもぐさせていた琴梨は、トマトを飲み込んでしまうと自分がなぜ立ち上がっていたのかを忘れてしまったように、すとんと元の椅《い》子《す》に座り込んだ。 「いただきまっす!」  自分のタラコスパをがつがつと食べ始めた。本当にがつがつという音を立てているのがスゴい。  あろえはフォークを握りしめて巴の様《よう》子《す》を報告する。 「なんかねえ、枕《まくら》を抱えて足をバタバタさせていたよ。水泳の練習かなあ?」  埜《の》々《の》香《か》じゃあるまいし、巴《ともえ》が今更ベッドをプールに見立ててバタ足の特訓をするとは思いにくい。 『ダイエットのつもりではないですかな』  壁《かべ》際《ぎわ》に転がっているガニメデが思いつきのようなことを言った。尻尾《しっぽ》から引き出した電極をコンセントに突き刺している。こいつはこいつで食事中なのである。 『先月比で体重が百五十グラム増加したのを気にしておいでのようでしたから。私に言わせれば増量分は胸部に集中しているわけでして、何ら気に病《や》むことなどないと助言したばかりだったのですがねえ』  なぜそんな細かい部分のサイズまでをこいつが知っているのかなんて、今更僕も気にしない。レーザースキャンかなんかで計ったのだろう。高度な性能をひたすら無《む》駄《だ》づかいする人工知能、それがガニメーデスである。爺《じい》さんが作ったものだけのことはある。  食欲不振と聞いて、以前あろえがぶっ倒れたエピソードが脳裏をよぎったものの、巴に限っては大丈夫だろうと得《とく》心《しん》し、自分で作った料理の味をゆっくりと噛《か》みしめた。 「あー美味《うま》かった! ごっそーさんっ」  琴《こと》梨《り》は常人の三倍のスピードですべての皿を空にして、さらに獲《え》物《もの》を狙《ねら》う猛《もう》禽《きん》類《るい》のような目を巴のぶんに注いでいる。 「だめだよ」  あろえがさりげなく注意した。琴梨は巴の手つかずの皿から目を移し、埜々香の手もとを覗《のぞ》き込む。ちまちました食べ方のせいで、半分も進んでいない埜々香がビクリとした。 「う……」  喉《のど》につかえたような声を漏らす。たらりと汗を流す埜々香の手がぷるぷる震《ふる》えていた。 「それも、だめ」  すかさずあろえが牽《けん》制《せい》し、琴梨は凌央《りょう》へと目を向けた。 「…………」  黙《もく》々《もく》と喰《く》い続ける凌央。小柄なくせに、実はけっこうな大食らいである。琴梨はぐるりとテーブルを見回して、あきらめきれないような顔つきでお茶をガブリと飲んだ。  琴梨がありがたいと思うのは、とにかくどんな失敗料理でも美味そうにぱくぱく食べてくれることだ。作り手側として、とても嬉《うれ》しくなる一《いっ》瞬《しゅん》である。おかげで残り物が出ることがなく、環《かん》境《きょう》にも優《やさ》しい。得《え》難《がた》い人材だ。  そんな彼女であるから、口を付けられていない料理が長々とテーブルに載っかっているという事態に耐えられるはずもなく、 「巴に訊《き》いてくるよ! ダイエットだったら半分くらいあたしが食べちゃってもいいよね! やっほーいっ」  席を立った琴《こと》梨《り》は止める間もなくダイニングを飛び出すと、足音も高らかに二階へと走っていった。 「元気だなあ」  と僕は呟《つぶや》く。動いてばかりだからエネルギー消費量もかさむのだろう。琴梨の食欲はそのせいかと納得していたあたりで、天《てん》井《じょう》がどすんばたんと慌ただしい音を階下に伝え始めた。  なにやら言い争っているような……というより、一方的な巴《ともえ》の怒《ど》鳴《な》り声と琴梨の笑い声が聞こえてくる。 「……あう」  怖《おず》々《おず》と埜《の》々《の》香《か》が天井を見上げる。ドタバタした音は、やがて廊下→階段→一階通路へと順次移動していき、 「見て見て、これ! わはははっ」  ダイニングルームに琴梨が飛び込んできた。 「およしなさい! ちょっ……やっ……!」  巴が琴梨の腰にしがみついている。髪を振り乱し、顔は真《ま》っ赤《か》。必死に片手を伸ばして、琴梨が手に持ってヒラヒラさせる紙切れを奪い取ろうと懸《けん》命《めい》になっていた。 「なあに、それ?」  あろえがやんわりとした口《く》調《ちょう》で尋ねると、 「手紙だよっ。巴さっ、じっとこれ読みながら身体《からだ》をクネクネさせてるもんだからさっ。気になってあたしも読ませてもらおうと、」 「ダメです!」  巴が叫ぶ。 「あなたに読む権利はありません! わたしがもらった手紙なのです!」  僕も仲裁に入ることにした。 「盗み見はよくないな。悪《あく》趣《しゅ》味《み》以前の問題だ」  ちらりとガニメデを見ると、知らない振りをして目をグルグルさせている。 「盗み見じゃないよっ!」  琴梨は高らかに宣言、 「どうどうと見てるのさ! どれどれ」  巴は、わあわあと珍しく取り乱したように喚《わめ》きながら、 「返しなさい、この! 琴梨! それ以上読むとあなたの恥ずかしい過去をすべて喋《しゃべ》ってしまいますわよ!」 「いいよ別に」  琴梨はあっけら、と笑う。 「だったらあたしも巴の恥ずかしい思い出を三つくらい見《み》繕《つくろ》って話しちゃうからねっ! それじゃ第一弾、じゃじゃん! 初等部三年のときーっ」 「おやめなさい! それだけはダメです!」 「第二弾、中等部一年の体育祭でー」 「それもダメ、ダメダメです! もう……やっと忘れかけていたのに、なんてことを!」 「ふーん、ではさ、一番最近にあったことなんだけど」 「心当たりはありませんが、とにかくダメです! 言ってはいけません!」  巴《ともえ》は長い髪を振り乱して手紙を奪回しようと飛び跳ねるも、いかんせん琴《こと》梨《り》の身長が一番高い。琴梨が手を挙げてヒラヒラさせている手紙まではギリギリで届かない。  代わりに僕が取ってやった。  普通の便せんに几《き》帳《ちょう》面《めん》な字が書いてある、と見えたのも一《いっ》瞬《しゅん》で、横から飛び上がったボール状の物体が僕の手からブツを奪い取った。  すちゃっ、と着地したガニメデは、二本のマニピュレータでしっかり便せんを広げ、電子音声を高らかに発した。 『こっこれはっ! 私の精《せい》緻《ち》なOCR機《き》能《のう》と文章|認《にん》識《しき》能力に狂いがなければ、伝説の古典的アイテム、ラブレターで間違いありません!』 「らぶれたぁ」  と、あろえが言って首を傾《かし》げた。 「誰《だれ》から? 誰にーい?」 『拝啓、佐《さ》々《さ》巴さま。ぶしつけに手紙を渡すという無礼をお許しください。でも、どうしても僕の気持ちを解《わか》って欲しかったのです。僕の名は小《お》野《の》寺《でら》ヒロトと言います。実は僕は毎朝のように貴女《あなた》の姿を垣《かい》間《ま》見《み》ているうちに貴女を好きに──』 「声に出して読むなぁ!」  手紙を奪い返した巴は、ガニメデにインステップキックをみまった。 『うごうっ』  シュート回転して壁《かべ》から跳ね返ってきたガニメデはポトンと凌央《りょう》の腕の中に落下する。  羊ロボットの手から放れた手紙が宙を舞《ま》い、こちらは僕の手もとに落ちた。文章を見ないように注意して、巴に返してやる。  巴はなぜかキッとした目で僕を睨《にら》みながら手紙を受け取った。 『愛の告白を兼ねたデートの誘いですな』  凌央に抱かれたガニメデが要約した。 『それで巴さん、そんなものをどこで渡されたのです。学校の下《げ》駄《た》箱《ばこ》に入っていたわけではありますまい』  そういえば五人の通う学校は女子校だ。 「登校途中のことですわ」  巴《ともえ》は便せんを丁《てい》寧《ねい》に折りたたんでポケットにしまった。 「信号待ちをしているところに声をかけられたのです。振り返ると近くの県立高校の制服を着た殿方が立っておりました。そしてこれをわたしに渡すや否《いな》や、爽《さわ》やかに走り去ってしまったのですわ」  巴にしては素直な状況説明だった。 『よく受け取る気になりましたね』  僕もそう思う。巴は幼稚園時代のトラウマですっかり男性不信に陥っているという話だったのに。 「なにせ突然のことでしたし……」  巴はチラと僕を見て、ふっと溜《ため》息《いき》をついて床《ゆか》に目を落とした。 「追いかけようにも走り去った後でしたわ。それに手紙の内容が何かも解《わか》りませんでしょう? ひよっとしたら果たし状なのかも──と、その時は思いました」 「ふーん?」  琴《こと》梨《り》はニヤニヤと笑っている。 「巴、ラブレターもらうの初めてだね!」  いまどき手書きで恋文を書いて手渡しするなんて、そんな古式ゆかしい行為が現代の高校生の間に生き残っているほうが不《ふ》思《し》議《ぎ》だった。 「でさ、デートに誘われたことも初めてなんでしょ!」 「あなたにはあるとでも?」  琴梨を睨《にら》みつける巴だが、彼女の幼《おさな》馴《な》染《じ》みはニッカリと歯を見せて笑い、 「はっはは! あったり前じゃないかあ。デートの二、三回、あたしくらいの年になると誰《だれ》だってやってるさっ。ねえ?」  琴梨が同意を求めているのはどうやら僕のようだったので、 「いや、まあ。うん、どうだろうね……」  あいまいに答えておいた。  琴梨はくるりと身体《からだ》ごと巴に向き直った。 「で、どうすんの? いつどこでデートしようって?」  巴はそっぽを向いて返事をしない。代わりにまたしてもガニメデが、 「今度の日《にち》曜《よう》、隣《となり》の隣の市にある遊園地に行こうとか書いてありましたな。待ち合わせ場所は駅前の公園、時間は午前九時。もしどうしてもイヤならば来なくてもかまわない、僕はすっぱりとあきらめます──』  ぐりぐりと目を動かして、 『ちなみにこの小《お》野《の》寺《でら》ヒロトくんについてですが、たった今、急《きゅう》遽《きょ》調《しら》べてみました。私の入手した情報によると、彼は近くの高校に通う二年生で四月十六日生まれの牡《お》羊《ひつじ》座《ざ》、血液型A型、所属する剣道部では主将に抜《ばっ》擢《てき》されており、今年《ことし》の県大会個人戦で優《ゆう》勝《しょう》、全国大会では惜しくも二回戦で敗退したものの敗退した相手は優勝していますからこれは相手がスゴすぎたと言うべきでしょう。成《せい》績《せき》は常に学年の上位を維持し、後《こう》輩《はい》の面《めん》倒《どう》見《み》もいいと周囲からの評判です。性格は至って穏《おん》和《わ》な品行方正、同性の友人も多く、前科はありません。両親と二人の弟を持つ五人家族の長男として育ち、将来を嘱《しょく》望《ぼう》される才に溢《あふ》れる逸《いつ》材《ざい》としてご近所さんにも名をはせております』 「いつ調《しら》べたんだ?」  ガニメデの長セリフとその内容にややウンザリしながら僕は訊《き》いた。 『ですから、たった今ですよ。超高性能人工知能である私にかかればハッキングもクラッキングも自由自在、ネットワークに接続している以上、侵入できないサーバなどございません。この程度の個人情報をピックアップすることくらい赤《あか》子《ご》の手をひねるも同然です』  そしてガニメデは両眼から光を放って壁《かべ》に映像を投《とう》影《えい》した。こんな機《き》能《のう》があったのか。 『これがその小《お》野《の》寺《でら》ヒロト氏ですな』  映っているのは学生服を着た一人の高校生の姿である。見るからに爽《さわ》やかそうな、しかもやたらとハンサムだ。ヒロトくんはどこかハニかんだ笑顔《えがお》で斜めを向いていた。 「わお」  琴《こと》梨《り》が口笛を吹く。 「思い出したよ、小野寺くんね! うちのガッコでも有名じゃんっ。カッコいいしさ、ファンも多いんだよ! 巴《ともえ》、断るのはもったいなさすぎだっ。デートしちゃいなよ!」 「はあ……」  巴は気の抜けた応答をした。 「ですが……」  さまよう巴の視《し》線《せん》と目があった。すぐに目を逸《そ》らした巴は、 「わたしはデートなんかしたことありません。いったいそれは何をどうすればいいものなのですの?」  琴梨はケラケラと笑った。 「遊園地に行こうって書いてあるんだから、遊園地で遊んでればいいんだよ! 二人でさっ、こう、手を繋《つな》いだりしてっ!」  そう言って琴梨は、近くにいたあろえの手を引き寄せると強引に手を繋いだ。よく見たら互いの指の間に指を組み合わせている、いわゆるデート繋ぎだ。  琴梨はぶんぶんと手を振り回す。あろえは楽しそうに腕を上下されながら、 「いいなあ、遊園地。行きたいなあ。巴ちゃん、あたしもついてっていい?」  いえーい、と言いながら琴梨は威勢よく歩き出した。あろえも一《いっ》緒《しょ》に歩《ほ》調《ちょう》を合わせ、そのまま二人してダイニングを出て行った。 「…………」  ガニメデを抱える凌央《りょう》と、オドオドと巴《ともえ》と僕を見比べている埜《の》々《の》香《か》、そして巴と僕がそれぞれ無言のままに残される。 「ただいまっ!」  琴《こと》梨《り》は笑顔《えがお》のあろえを引き連れ、すぐ戻って来て言った。 「ま、こんな感じさ! わかったかい? 巴」 「ぜんぜん」  巴はぶっきらぼうに答えて口をへの字に結んだ。僕は僕で何とコメントしていいものやら困っていた。さっきから巴がチラチラと僕に視《し》線《せん》を送っているのは何の合図だろう。 「じゃあさ!」  琴梨は満面の笑顔だった。 「リハーサルをしようっ。そしたら巴も準備|万《ばん》端《たん》、いざ本番で変なしくじりをしたりしないよねっ? 下見もかねて、みんなで遊園地に行こう!」  巴は気の進まない様《よう》子《す》で、 「勝手に決めるのではありません。わたしはまだ行くとも行かないとも……」 「何言ってんのさ! 行きなよっ。こんなチャンスは二度とないかもしれないんだよ?」 「そうかもしれません。けれど、わたしはそんな、別に……」  つぶやくように言う巴に、きひひ、と琴梨は笑って、 「だからさ、巴のためにみんなで遊園地デートのリハーサルしようよっ。いいよね、ひーくん?」 「まあ、いいけど……」  僕は琴梨の勢いに押され、つい首を縦《たて》に振って、 「でも、いつ?」 「土《ど》曜《よう》でいいじゃん。学校休みだし。そんでさ、巴の相手役もひーくんやってよねっ」 「えっ?」  僕と巴が同時に声を出す。 「ふふん、デートのリハーサルだもんね! 男役はどうしたって必要だよっ」  琴梨はあろえと手を繋《つな》いだまま、 「だってさ、その小《お》野《の》寺《でら》くんは巴に一《ひと》目《め》惚《ぼ》れなんだよね。こんな手紙くれるくらいだから相当なもんだよ! なのに、実際に会ってみて『なーんだ、想像してたのとイメージが違うなあ。あんまり可愛《かわい》くなかったよ。ちぇっ』なんて思わせちゃったらショックヘビーだよ! 巴だってガッカリされるのはイヤだよねっ」  巴はまたへの字の口をして、 「……勝手な幻想を思い描かれるのは別にかまいませんが……まあ、なんとなくわたしのプライドが許さないような気がしますわね」 「うん、そうしよう! それがいいよ! なんたって巴《ともえ》はデート初心者だからねっ。あたしが細かく教えてあげるさ!」  琴《こと》梨《り》がテンション高く発言し、僕たちはうやむやのうちにうなずかされていた。 「リハーサルですか……」  そう呟《つぶや》いた巴とまた目が合う。おまけに何かを訴えかけるような眼《まな》差《ざ》しを向けていたが……、なんだろう? 僕が首を傾《かし》げていると、 「ふん」  たぶん小《お》野《の》寺《でら》くんとのデート風景を想像したのだろう、巴は微妙に顔を赤らめて僕から視《し》線《せん》を外した。そしてカクカクした動きで自分の席に着くと、すっかり冷めたタラコスパをモソモソと食べ始めた。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  その晩、就寝しようと自室に布団をしいていると、枕《まくら》の横で鎮《ちん》座《ざ》するガニメデがのたまいだした。 『よいのですか? 巴さんがどこぞの馬の骨と付き合うようになってしまっても』 「巴なら安心だ。他《ほか》の四人と違ってしっかりしてるしさ。琴梨は別の意味でしっかりしているけど」 『何がしっかりですか。そんなあなたに私はがっかりしております』 「なぜだよ」 『巴さんがその馬の骨少年にウリャコリャされるハメになったらどうするのです。品行方正なのは表向きの仮面、その実体は……てなことだって想定可能です』 「わざわざ想定することはないだろう。だいたいウリャコリャってのは何のことだ」 『レーティングに引っかかるので、セリフとして明《めい》瞭《りょう》に発音することなどできませんな。あえて言うなら、』  ガニメデはたっぷり十秒間、P音の連続からなる怪音波を発した。 『こんな感じです』 「わかるか」  僕は邪《じゃ》魔《ま》な羊人形を壁《かべ》まで転がして電気を消した。暗《くら》闇《やみ》の中、 『なんとまあ鈍《にぶ》い……朴《ぼく》念《ねん》仁《じん》の極地です……もっとこう色々と……』  という呟き声が聞こえていたが、どうせ意味はわからない。あっさりと僕は眠りについた。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  そして数日が過ぎ、土《ど》曜《よう》の朝が来た。本番は明日《あした》。今日《きょう》はデートのためのリハーサルだ。  朝食の席で、僕と巴《ともえ》は琴《こと》梨《り》からホチキスで綴《と》じたコピー用紙の束を渡されていた。手抜きの同人誌みたいなその表紙には、 〈巴とひーくんのデート大作戦シナリオ 作・鴻《こうの》池《いけ》琴梨〉  というタイトルがつけられていて、ページをめくるとデートの待ち合わせから帰宅するまでのタイムテーブルと行動予定が頼りない文字で書いてあった。どう見ても埜《の》々《の》香《か》の字だ。琴梨が言うままの言葉を必死で書き留めている小さな姿が容易に想像できる。 「しかたがないなぁ」  埜々香文字の琴梨シナリオを読み終えた僕の肩から力が抜けた。どうやら制作者の琴梨は、デートのリハーサルにかこつけて遊園地で遊び回りたいだけらしい。  だが、巴が文句を言わないので僕も何も言いようがない。シナリオ通りにやってみよう。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  琴梨のキュー出しにあわせ、僕は待ち合わせの駅前公園へと走り出した。定刻の五分前だから急ぐこともないのだが、 「こういうときは走るものだよ!」  という、琴梨の命令に従ってそうしている。  公園にはすでに巴が待っていて、所在なさそうにポツンと立っていた。いかにもシブシブといった表情で、ちょっと顔を強《こわ》張《ば》らせている。  臨《りん》時《じ》のスタイリストとなったあろえが遅くまであれこれと選んでいたおかげだな、今日《きょう》のおめかし衣装はよく似合っていた。ふんわりした単色のワンピースと同じ色の帽子をかぶり、手作りサンドイッチ(僕が作ったものだけど)が入ったバスケットを持っている。  そうして見るぶんには文句の付けようのない可愛《かわい》らしさで、普《ふ》段《だん》の巴を知っている僕でさえ心が揺らめいた。なるほど、いかにも純《じゅん》情《じょう》無《む》垢《むく》な少年から一《ひと》目《め》惚《ぼ》れされそうなお嬢《じょう》さん風《ふう》美少女である。 「やあ、待った?」  と、僕は棒読みの声をかけた。 「いえ、わ、わたしも来たばかりなのです」  巴のセリフもぎこちない。どうやら微笑を浮かべようと苦労しているらしい。巴は唇をうにうにと動かしたあげく、ニヤリと形容するしかない笑顔《えがお》をつくった。 「じゃあ、行こうか」 「そ、そうですわね」  その途《と》端《たん》、歩き出そうとした僕と巴の胸元で、雲雀《ひばり》の囀《さえず》りのような音が響《ひび》きだした。ピロピロ鳴っているのは通信バッヂだ。ちょいと手を触れると鳴りやみ、琴梨の声が取って代わった。 『こらーっ! 歩くときは手を繋《つな》ぐんだよ! ちゃんとデート繋ぎじゃないと雰囲気出ないよ!』  巴《ともえ》と顔を見合わせてから振り返る。公園の木陰から、他《ほか》の四人が覗《のぞ》き込むようにこちらをうかがっていた。遠目からでも解《わか》る笑顔《えがお》なのがあろえで、おずおずと顔を出しているのが埜《の》々《の》香《か》、凌央《りょう》は棒のように立ちつくしていて、琴《こと》梨《り》は通信バッヂを口もとに持っていって白い歯を見せつけていた。  凌央と埜々香はともかく、琴梨とあろえは完全に面《おも》白《しろ》がっている気《け》配《はい》だ。 「どうする?」と僕は訊《き》く。 「はあ」  巴は片手の指を握ったり開いたりしながら、 「それが作法だというのなら致し方ありませんわね……」  意を決したような視《し》線《せん》で僕を見て、 「ちゃんと手を洗ってきたのでしょうね」 「いちおう、家を出る前に」  とりあえず僕は巴の手を握った。熱《あつ》い手のひらだった。  うひゃひゃ、という笑い声をバッヂが発し、それを合図に僕たちは歩き出した。  駅で切符を買って改札を通り抜け、急行列車を待っている間は、手を放させてもらうことにした。 さすがに人目が恥ずかしい。  巴《ともえ》は黙《だま》りこくったまま、顔を背《そむ》けるようにして立っている。ホームに滑《すべ》り込んできた電車が強風を巻き上げ、巴は帽子を押さえる。乗り込んだ電車が走り出してからも、巴は黙ったままだった。僕も付き合って沈《ちん》黙《もく》を守る。  ふと横を見ると、四人とガニメデは隣《となり》の車両にいた。  リュックサックに詰め込まれたガニメデが、全開のファスナーから顔を半分のぞかせている。このかさばる荷物を背負わされているのは、当然のように埜《の》々《の》香《か》だった。  ぬいぐるみを持ち歩く趣《しゅ》味《み》があってもギリギリ許される年《ねん》齢《れい》なのは彼女だけ、という理屈だが、当の埜々香は恥ずかしそうにうつむいている。  あろえは完全に行楽気分、凌央《りょう》は普通に無表情、琴《こと》梨《り》は自前のシナリオに書き込みを加えながらニカニカと笑っていた。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  その二十分後、僕と巴は遊園地の門をくぐっていた。遥《はる》か後ろを四人と一匹の追跡者たちがつけてくる。なんか落ち着かないなあ。  僕は琴梨シナリオをパラパラとめくった。 「これによると最初はジェットコースターに乗ることになってるけど、そうする?」 「わ、わたしは何だってけっこうです」  固い声で巴は言った。緊《きん》張《ちょう》している気《け》配《はい》がする。高くて速くて回る乗り物が苦《にが》手《て》なのかとも思ったが、巴は素直な足取りでチケット売り場までついてきた。  有名なテーマパークというわけでもないので、この遊園地は土《ど》曜《よう》日《び》だというのにそれほど客が入っていない。待たされることもなく僕と巴はジェットコースターの座席に並んで着いていた。考えてみれば遊園地に来るのは久しぶりだ。ゴトゴトとレールを上がっていくコースターに童心を蘇《よみがえ》らせながら下界に目をやると、こちらを見上げて手を振るあろえたちの姿が見えた。  間もなく頂点に達した僕と巴は数秒ののちにダブルループへと直行、強烈なGがかかる中、巴はずっと目を閉じていた。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり] 「苦手なんだったらそう言えばいいのに」  ベンチでへたり込む巴に僕はジュースの缶を差し出した。冷や汗混じりの青い顔が僕を見上げる。 「……忘れておりましたわ。回っている最中に思い出しました。言えば降ろしてくれたのですか?」 「そりゃ無理だけど」  高い場所は気にならないがスピードに弱いという。僕と巴《ともえ》の頭上を轟《ごう》音《おん》を立てたジェットコースターが通り過ぎ、巴はまた首をすくめた。カン高い歓声があっという間に遠ざかる。先頭に乗ってバンザイしているのは琴《こと》梨《り》とあろえだ。その後ろに凌央《りょう》と埜《の》々《の》香《か》がいた。前の二人は楽しそうだが、後ろの二人組の反応はまちまちだ。僕の動体視力もいい線《せん》いってる。無表情に前を向いて動かない凌央と、すでに気を失って首をガクガクさせている埜々香の姿が網膜に焼きついた。早くも遊園地の満喫モードに入っているようだった。 「次に行くかい?」  予定表によると、ジェットコースターの次はウォータースライダーに乗ることになっている。  巴は白い喉《のど》をさらして飲んでいた缶ジュースから口を離《はな》し、 「ええ、それでけっこうですわ。ですが、少しだけ休ませてください」  僕は巴の隣《となり》に腰を下ろして空を見上げた。  コースターは二回転目の宙返りに入っていた。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  ガニメデを背負った埜々香は琴梨に背負われて出口から出てきた。うなされたような顔で失神しているふうである。凌央の手を引いて歩くあろえが、僕と巴に気づいて笑いかけた。バイバイという感じに手を振って、そのまま四人は一《ひと》塊《かたま》りに去っていく。  早くも琴梨は僕たちへの指示をすっかりと忘れ去っているようだった。完全に自分たちが楽しむことだけしか考えていない。せっかくの通信バッヂも、こうなれば無用の長《ちょう》物《ぶつ》だ。  僕が琴梨のシナリオを丸めてポケットに入れると同時に巴は立ち上がった。 「だいじようぶです。さあ、行きましょう」  なぜだか気合いが込められた、決然たる声だった。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  ウォータースライダーで水をかぶった僕たちは、乾かしついで園内をブラブラと歩いていた。琴梨の作ったデートプランは、遊園地の全アトラクションを制《せい》覇《は》するくらいのタイトなスケジユールになっており、しかし巴が苦《にが》手《て》とする速いやつを除外すると、候補はそういくつも残らない。  それにしても今日《きょう》の巴の様《よう》子《す》はおかしい。  巴はずっと奇妙な緊《きん》張《ちょう》感《かん》を覚えているようで、硬い動きと表情を保ち、いつも館《やかた》で見せているようなキレが全然ない。ただ僕の半歩後ろをカラクリ人形みたいな動きでついてくるのみだ。  やはりデートのリハーサルなんてもの自体に無理があったと言うべきだろう。なんたって相手が僕だし。  二人乗りゴーカートでミニサーキットを一周し、人工湖でスワンを時間いっぱい漕《こ》ぎ、メリーゴーランドのカボチャの馬車に乗ってから、僕たちは昼食を摂《と》ることにして遊園地の中心にある芝生《しばふ》の広場に場所を確《かく》保《ほ》した。  他《ほか》の四人が今どこで何をしているのかは、もうまったく解《わか》らない。  サンドイッチをバスケットから取り出し、敷《し》いたナプキンの上に並べていると、巴《ともえ》の溜《ため》息《いき》が聞こえた。 「これがデートというものですか……」  僕は自分の作ったカツサンドを持ったまま、 「楽しくないか? 遊園地はミスチョイスだったかな」  今からでも小《お》野《の》寺《でら》ヒロトくんに教えてやったほうがいいかもしれない。 「つまらないわけではありませんけど」  巴は仏《ぶっ》頂《ちょう》面《づら》でツナサンドを噛《か》みしめていた。 「どちらかと言えば、わたしはもっと落ち着いたところが好きですわ。高いところから大急ぎで落ちたりグルグル回ったりするのは琴《こと》梨《り》の領分です。わたしの担当ではありません」  その時、通信バッヂが揃《そろ》って鳴り出した。 『本日はお日柄もよく、若きお二人におかれましては誰《だれ》にも邪《じゃ》魔《ま》されない楽しき世界を作り上げているかと存じます。このガニメデ、そんなお二人の姿を観《かん》察《さつ》できないのが残念至極、断《だん》腸《ちょう》の思いとはこのことです。米軍あたりのランドサットをアイジャックしたいのですがいいでしょうか』 「やめとけ」 「何の用でしょう」  巴が胸もとに話しかける。 「だいたい、あなたがついてくることはなかったのではありません?」 『なんて冷たいお言葉。私はお二人がどのように愛を語らっているのか、せめてそれくらいは知っておきたいと思っただけですのに』  やれやれ、と僕は肩をすくめる。 『というのはライトなジョークです。一応、他のお嬢《じょう》さんがたの様《よう》子《す》をお伝えしておこうと思いまして』 「どうしてる?」と僕。 『琴梨さんは遊びに夢中で一時間も前から単独行動を取っておられます。凌央《りょう》さんも同じで、さきほど水《すい》族《ぞく》館《かん》に入って以来、デンキウナギの水《すい》槽《そう》の前から動こうとしません。あろえさんと埜《の》々《の》香《か》さんはベンチで仲良くアイスクリームをなめておられます』 「埜々香を一人にしないようにしろよ。迷子になりそうで怖い」 『私がついておりますから、お二人とも気兼ねなくデートをお楽しみください』 「リハーサルです」  巴《ともえ》が強い調《ちょう》子《し》で言った。 『あー、そうでしたっけ。巴さんが言うからにはそうなんでしょうな、いや──』  そこに突然|琴《こと》梨《り》の声が割り込んだ。 『やっほーい! 巴、ひーくん! ちゃんとしてっかい? あ、ご飯食べてるね!』  思わず辺りを見回す。 『ここだよ、ここ。てっぺんさ!』 「あそこですわ」  目を細くした巴の指先の延長上にバンジージャンプの台があった。いましも飛び降りようとしている小さな人《ひと》影《かげ》が両手を振り回している。 『とうりゃあーっ!』  微《み》塵《じん》もためらわない元気な掛け声を放ち、琴梨はバンジーを敢《かん》行《こう》した。  びよんびよん跳ねる琴梨の小さな姿と、バッヂから届く楽しげな声。 「あれの何が楽しいのでしょう。飛び降りのリハーサルにしか見えませんけど」  巴の呟《つぶや》きに、僕も全面的に同意だった。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  昼食を終えた僕たちは琴梨のシナリオ通り、ゲームコーナーに赴《おもむ》いた。 『パンチングゲームとモグラ叩《たた》きをハイスコアが出るまでやるのだっ』と書いてある通りにやってみたものの、叩いてなんとかなったのはモグラだけだった。それも巴と二人がかりで、かつ息を切らしながら三回リトライしてである。 「疲れますわね」  巴は額《ひたい》に浮いた汗を刺《し》繍《しゅう》入りハンカチでぬぐった。 「次は何です?」  エアホッケーだった。その次が射的で、さらに次がUFOキャッチャー。景品のピンバッヂを獲《かく》得《とく》するまでけっこう高くついた。せっかくだから巴にプレゼントすることにする。 「まあ、なんてお手軽な記念品でしょう」  言いながら、巴はプラスチックケースに入ったままのそれをバスケットにしまい込み、 「次は?」  この頃《ころ》になると巴の態度が少しずつ変化していることに僕は気づいていた。硬かった序《じょ》盤《ばん》に比べると表情も雰囲気も格段に違う。プリクラを撮《と》ったときはヨソ行きの笑《え》みを作っていたし、遊園地のマスコットキャラの着ぐるみが小さな子供たち用に風船を配っているのを見て、 「埜《の》々《の》香《か》用にもらってあげようかしら」  と言う余裕すらできつつある。よくよく周囲を観《かん》察《さつ》するとカップルと家族連れがウヨウヨしているので、僕と巴《ともえ》もまた他人からは付き合い始めの恋人同士か、悪くても兄と妹くらいには見えていることだろう。擬《ぎ》似《じ》デートとはいえ、巴もそんな場の空気に馴《な》染《じ》み始めているのかもしれない。  それ以降も引き続き、僕と巴は琴《こと》梨《り》シナリオに沿って遊園地を練り歩いた。ただし巴の苦《にが》手《て》な高い所を回転する系のアトラクションはすっ飛ばし、コーヒーカップとかミニチュア機《き》関《かん》車《しゃ》とかの無《ぶ》難《なん》なやつだけを選ぶ。  オバケ屋《や》敷《しき》の中では、巴はしっかりと僕の手首をつかんでいた。決して怖がるところを見せまいとする意志が感じられ、その感覚は僕を微笑《ほほえ》ませた。 「たいしたオバケはいませんでしたわね」  出口に到達したとき、巴は急いで手を放しながら強がりを言った。 「あれならEOSのほうが何倍も不気味ですわ。もっと演出をきかせないと」 「まったくだ」  気になって連絡を入れると、行動力抜群の琴梨に率いられたあろえと埜《の》々《の》香《か》(+ガニメデ)は、楽しまないと損だと言わんばかりに右から左に走り回っているようで、凌央《りょう》だけはいまだウナギを眺め続けているそうだ。今晩はカバ焼きにしたほうがいいのだろうか。 「で、次は何です?」  巴の声はほんの少しだけ弾んでいるように思える。僕は手作り冊《さっ》子《し》をめくった。 「えーと、ビックリハウスになってるな」  そうこうしているうちに時は過ぎ、やがて夕方になっていた。閉園にはまだ間があるが、そうそろ帰り支《じ》度《たく》をする頃《ころ》だ。  琴《こと》梨《り》によるデート(リハーサル)プログラムの掉《とう》尾《び》、その指示に従って最後の目的地にやってきた僕と巴《ともえ》を、勢ぞろいした四人とガニメデが待ち受けていた。  ちぎれんばかりに手を振っていたあろえが、僕と巴を何度も見比べて、 「なんか、ホントのデートしてるみたいー」  無邪気な感想を述べる。巴が反応する前に、 「ラストはやっぱこれさ!」  琴梨が大声とともに示したのは、ちょうどライトアップされたばかりの観《かん》覧《らん》車《しゃ》だった。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  日が落ちていたら夜景が見れて風《ふ》情《ぜい》もあろうというものだが、まだ夕方なので眼下に広がるのはオレンジに染まった町並みだ。緩《かん》慢《まん》に上昇する観覧車の箱の中、僕と巴は向かい合わせで座っていた。他《ほか》の四人はすぐ下のゴンドラに乗っている。そのゴンドラが風もないのにユサユサしているのは、琴梨が面《おも》白《しろ》がって揺らしているからだろう。  巴はぼんやりと窓の外を眺めている。黙《だま》ったままなのも気詰まりだ。 「学校はどう? ちゃんと勉強してる?」  一度まじめに訊《き》いておこうと思っていた。今日《きょう》明日《あした》にどうするかはいいとして、将来のこと。爺《じい》さんが帰ってくるのがいつになるか解《わか》らないけど、何年もかかるようなら問題だ。 「巴たちの女子校は大学付属だったよな。そのまま進学するの?」 「そのつもりはありませんわ」  巴は下界を見下ろしながら答えた。 「今のわたしには進学してまで学びたいことが思いつきません。わたしのやりたいことはそれではないのです」  物《もの》憂《う》げな横顔だった。 「巴は何をやりたいんだ? 将来の夢とか」 「夢ですか」  考え込むように顔を伏せ、ポツリと、 「猫……」  猫? 「そう……そうです。猫をどうにかする仕事がいいですわ」  その瞬《しゅん》間《かん》、巴の表情が切り替わったように明るくなった。 「そうですわね。猫の調《ちょう》教《きょう》師《し》とか……」  話しているうちに瞳《ひとみ》が輝《かがや》きだす。 「猫のサーカスなんていかがです。猫しかいないのです」  想像してみる。サーカス団長となった巴《ともえ》の指揮に従って、様々な猫たちが芸をする。 「それも猫たちを餌《えさ》で釣ったり、飼《か》い慣《な》らしてとかいうのではないのです。自発的に働いてくれるのがベストですわ。ちゃんと心から交流して、お願《ねが》いを聞いてくれるように……」  うっとりと目を閉じて微笑する。 「あの言うことをきかない可愛《かわい》らしい獣《けもの》を、もっと愛らしくしたいのですわ。盲《もう》導《どう》猫《ねこ》なんて、とても魅《み》力《りょく》的《てき》だと思いませんか?」 「こんなのはどうかな?」  と、僕も乗ってみる。 「災害救助猫だ。レトリバーが瓦《が》礫《れき》の山に潜《もぐ》り込んでいるニュースを見たことあるんだけど、そういうのは猫のほうが得意そうだよな」 「それ、いいですわ。猫に助けられるなんて、素《す》晴《ば》らしい体《たい》験《けん》です」  具体的に定まっているわけではないが巴は動物がらみの職《しょく》種《しゅ》を希望しているようだった。  その後、話題は館《やかた》にたむろしている猫にお手を仕込む話となって、ひそかに練習させているもののいまだ成功例なしという巴の告白を聞き終えたところで観《かん》覧《らん》車《しゃ》は一周を果たした。  先に降りて待っていた僕と巴に、後続のゴンドラから降りてきたあろえが笑いかける。  気絶した埜《の》々《の》香《か》が琴《こと》梨《り》に背負われていたのは、まあ、予想通りのことだった。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  翌朝、日《にち》曜《よう》。 「いってらっしゃーい」  昨日《きのう》ハシャギすぎたためかまだ起きてこない琴梨を除き、全員が出かけていく巴を見送った。  巴は強《こわ》張《ば》った表情でニヤリ的な笑《え》みをぎこちなく浮かべ、ゼンマイ人形のような動きで玄関を後にする。 「いいなあ、デート。ののちゃん、今度あたしとデートしよっか」  あろえは埜々香の頭を撫《な》でながら共にリビングヘテレビを見に行き、凌央《りょう》はぼんやりと玄関扉を三分くらい見つめた後に自分の部屋に行った。なので、 『これでよかったのでしょうかね』  下《げ》駄《た》箱《ばこ》の上でガニメデが言ったセリフを聞いたのは僕だけだった。 「よかったも何も、いまさら言うことじゃないだろうさ」 『まさに。ですが、私の曇《くも》りなきレンズと観察眼が教えるところによりますと、巴さんはまったく乗り気ではないですよ。あなたの目が私以下とも思えませんが』  そんな気はしていた。が。 「僕が茶々を入れるまでもないよ。何だかんだ言いながら、巴《ともえ》は自分にも他人にもちゃんとしてる。決めるのは本人だよ」  ガニメデは機《き》械《かい》にあるまじき反応を見せた。呆《あき》れたように嘆《たん》息《そく》しやがったのである。 『あなたはそれでいいかもしれませんが、巴さんはどうなります? 本当は止めて欲しかったのかもしれないのですよ。あなたが一言、やめとけ、と言っていたら巴さんは気の進まない誘いに乗ることはなかったかも』 「気が進まないなら行かなきゃいいじゃないか。どうして僕の意見を参考にするんだ?」  レンズをぐるりと回転させただけで、ガニメデはそれきり何も言わなかった。  その後しばらく、僕たちは休日の朝らしい日常へと復帰した。あろえと埜《の》々《の》香《か》はテレビにかじりつき、琴《こと》梨《り》は朝寝を貧《むさぼ》り、凌央《りょう》は何をしているか解《わか》らない。僕も二度寝しようかと部屋に戻りかけた時──。  警《けい》報《ほう》が館《やかた》中《じゅう》に鳴《な》り響《ひび》いた。  EOSの出現を告げるワーニングコールだ。 「わったあ! 出たのかなっ!」  琴梨が階段から転げ落ちるように降りてきた。その背後から凌央がひょっこりと顔を出す。あろえと埜々香も居間から飛び出てきた。 「出番だね。あ、でもー」  あろえは玄関に目をやって口ごもる。何を言いたいのかよく解る。  巴がいない。 「いいじゃん」と琴梨が根拠なく請《う》け負った。「あたしたちだけで何とかなるよっ。巴は放っとこう! 初デートを邪《じゃ》魔《ま》すんのは悪いからねっ!」  下《げ》駄《た》箱《ばこ》から廊下に跳んで来たガニメデも、 『まあそうですね。確《かく》率《りつ》的《てき》に見て、巴さんがいなくともEOS撃《げき》退《たい》の可能性は高いと思われます。バスジャック事件や学校包囲事件のようなことがなければの話ですが』  僕が言いよどんでいるうちに、四人娘たちは足早に地下へと向かった。言うまでもなく戦《せん》闘《とう》用《よう》コスチュームに着替えるためだ。それを見送った僕はガニメデに質問した。 「本当に巴なしで大丈夫か?」 『さあ』とガニメデ。『彼女の必殺技攻撃が対EOS戦で最も有効なのは認めます。ここは天《てん》秤《びん》ですよ。世界の破滅か、うら若き乙女《おとめ》の初デートのどちらを尊重するかのです。あなたはどちらのほうが大切だと思います?』  にわかには答えにくい問題だった。程度が違いすぎてすぐに回答が思い浮かばない。だいたい、比較するような話ではないだろう。世界の存亡とデートの成否だったら、どう考えても優《ゆう》先《せん》すべきなのは世界のほうだ。  しかし時間的に見て、いまごろ巴はとっくに小《お》野《の》寺《でら》ヒロトくんと顔を合わせ、仲良く電車に乗っている頃《ころ》合《あ》いだろうし……。  そのように僕が悩んでいると、不意に館《やかた》の扉が外から開かれた。 「何をバタバタと……」  と言いかけた声の主、長い髪を持つスタイルのいいシルエットは、巴《ともえ》以外の誰《だれ》でもない。 「あら」  巴は鳴《な》り響《ひび》く警《けい》報《ほう》に気づき、 「EOSが出たのですね。なぜわたしに連絡をよこさないのです?」  胸元の通信バッヂを指で弾《はじ》く巴に、僕は軽い驚《おどろ》きを感じながら、 「いや、デートの邪《じゃ》魔《ま》をするのも悪いと思ってさ。……ん? ところで、なんで戻ってきたんだ? 忘れ物?」 「いいえ」  巴は持っていたバスケットを投げ出すように置くと、勢いよく廊下を歩き出した。 「くだらない理由で中止になりましたわ。詳しく説明している場合ではありません。わたしも準備しないと」 「あれ? 巴ちゃん? なんで?」  戦《せん》闘《とう》衣装に着替え終えたあろえが地下室から上がってきた。目を丸くする。 「デートは?」  入れ違いに巴は足早に階段を下りていった。 「説明は後!」  キッパリと言い残して。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  その説明を、僕たちは車の中で聞くことになった。法定速度を遥《はる》かにオーバーして走るオープンカーの助手席で、戦闘衣装をまとった巴は暴《あば》れる長い髪を片手で押さえながら面《おも》白《しろ》くもなさそうに語った。 「待ち合わせ場所に行くと同時に、向こうの方から断りを入れてきました」 「どうしてさ? 誘ったのは彼だろ」  僕の疑問に対し、巴はフウウと大きく息を吐いた。 「その、見られていたのですわ」 「何をだい?」 「昨日《きのう》……。わたしたちがやっていたことをです」  小《お》野《の》寺《でら》くんが話したという巴の語りを総合的にまとめると──。  昨日、彼は彼でデート現場の下見に出かけるつもりだった。そして駅前まで来た彼の見たものは、綺《き》麗《れい》に身《み》支《じ》度《たく》を整《ととの》え、人待ち顔でたたずむ佐《さ》々《さ》巴その人だ。声をかけようかと迷っていると、どう見ても巴《ともえ》の彼氏に違いないといった風《ふ》情《ぜい》の青年(僕のことらしい)が駆け寄ってきた。巴も嬉《うれ》しそうな顔で(そうだっけ?)青年に微笑《ほほえ》みかけて、そのまま仲むつまじげに手を握り合い(そう……だったかもな)、電車に乗り込んでしまった。その後、青年と巴はデート予定地である遊園地へ到着、恋人同士としか思えない楽しそうな様《よう》子《す》を見せていた(なんと、つけられてたのか)。そこまで確《かく》認《にん》した小《お》野《の》寺《でら》くんは、すっかり意気消沈し、打ちひしがれて帰宅の途についたのだった……。 「昼過ぎには帰ってしまったそうです。ですから──」  本当はあろえたちと一《いっ》緒《しょ》だったことを、彼が知る機《き》会《かい》はなかったということだ。  今朝《けさ》の駅前公園で彼はこう言ったらしい。  ──ごめん、巴さん。あんな手紙をだしてしまって、さぞ迷惑だったことだろう。あなたにはすでに彼氏がいたんだね。本当にごめん。僕のことは忘れて欲しい。じゃあ。  巴は肩をすくめる仕《し》草《ぐさ》をした。 「そして、爽《さわ》やかに走り去ってしまいました」  なかなかスパイシーな少年だ。 「誤解だって言えばよかったのに」 「そんなヒマなど全然ありませんでしたわ。わたしが口を差し挟む余裕などどこにも」  巴はそっぽを向いた。 「思えば、わたしにはEOSから世界を守るという重大な使命があるのですわ。色《いろ》恋《こい》沙《ざ》汰《た》にうつつを抜かしている場合ではありません。少なくとも今はそうなのです」  琴《こと》梨《り》が後ろから、 「ホントかっ? 最初から誤解を解くつもりなんかなかったんじゃないかなっ。だってそれ、誤解でもなんでも──」 「お黙《だま》りを」  突っついてくる琴梨の手をうるさそうに払いのけ、巴は毅《き》然《ぜん》とした態度で前を向いた。 「さあ、さっさとEOSをやっつけて帰りましょう。せっかくの休日なのですから、ゆっくり休みたいものです」 『揺れる乙女《おとめ》心《ごころ》というやつですよ。秀《ひで》明《あき》さん、あなたに教えて差し上げることがまだまだたくさんあるようですな。これは素直になれない症候群と言いまして恋愛的症例の一つです。巴さんを例に具体的に説明しますと、』  巴は無言でダッシュボードに乗っていたガニメデを引ったくり、その勢いを利用して後ろに放り投げた。後続車がなくて幸いだった。ゴムボールのように弾んで遠ざかるガニメデは、スリーバウンド目で四つの手足をにょっきりと出すと、まさしく昆虫の動きで猛然と車を追いかけてきた。 『ヒドいではないですか、巴さん』  抗《こう》議《ぎ》の声はカーナビから鳴っていた。 「余計なことを言おうとした罰ですわ」  巴《ともえ》はゆっくりと振り返る。片手を伸ばして指鉄砲を作った。狙《ねら》っているのは追ってくるガニメデだ。  声には出さず、唇が「ばーん」と発音するように動いた。そして僕が初めて見る、錯《さっ》覚《かく》かと思うほどの、心から楽しげな笑《え》みを形作った。  チラリと横目を僕によこした巴は、またそっぽ向きモード。長い髪が風で舞《ま》う。 「ガーくん、はやくー」  あろえが後ろに手を伸ばしている。  車が減速を開始する。 [#改ページ] 第七話『ストレート・チェイサー』  時は深夜、場所は近所の小学校のグラウンドでのことだった。  巨大な雪ダルマ型EOSが逆《ぎゃく》襲《しゅう》を開始した。 「わっわーっ」  あろえがスケッチブックを抱えて走り出し、 「なんて季節はずれなっ!」  巴《ともえ》は叫びながら硬直中の埜《の》々《の》香《か》を抱えて走り出し、 「…………」  凌央《りよう》はぼんやりと立ちつくし、 「はっははっ。なんか弱そーな怪物くんだねっ。雪ダルマにしか見えないさ!」  と、笑う琴《こと》梨《り》はスケートボードを肩に乗せて車によりかかっていた。 「琴《こと》梨《り》っ!」  巴《ともえ》は、飛び跳ねる全長五メートルの雪ダルマ型EOSから逃げまどいながら、 「何を遊んでいるんです! わたしは次の攻《こう》撃《げき》まで五分かかります! あなたが何とかしなさい!」 「へいへーいっ」  琴梨は運転席で彼女たちの戦いぶりを眺めていた僕に、ニカリとした笑《え》みをよこしてから、 「じゃ、ひーくんっ。いっちょ、やってくるよっ」  ポイとスケボーを空中に投げ、着地するより早く飛び乗って、 「ひゃほーっ」  底抜けに明るい掛け声を発して飛ぶように加速した。 『すぐに片づくでしょう』  助手席で転がっていたガニメデが未来予測を弾《はじ》き出す。 『今回のEOSは今までに出現した個体と比べても段違いに弱《よわ》弱《よわ》です。実に薄《はく》弱《じゃく》な次元エネルギーしか保有しておりません』 「だといいけど」  僕は五人の戦《せん》闘《とう》衣装姿に目をやった。最初にこの場所にたどり着いて以来、凌央《りょう》はピクリともせずに突っ立ったままだし、あろえと巴は初撃に失敗して今は逃げ回っている。埜《の》々《の》香《か》と三匹の精《せい》霊《れい》犬《けん》は最初からまったく活《かつ》躍《やく》しておらず、目下のところ巴の手荷物となっている。  そして琴梨は、そんな四人を面《おも》白《しろ》そうに眺めていて、ようやく勤労|意《い》識《しき》に目覚めたばかりだった。 「やれやれ」  僕は肩の凝《こ》りを取るように首を回した。  いくら時と場所を選ばないとは言え、EOSもこんな真夜中に出現することもないだろう。丑《うし》三《み》つ時《どき》に鳴《な》り響《ひび》いたカサンドラ警《けい》報《ほう》に叩《たた》き起こされた僕たちだが、睡眠不足と寝起き直後のダブル効果で全然頭がスッキリしていない。そのためか、彼女たちのワザのキレもあまりいいとは言えなくなっている。  最初にあろえが描き出した『ロボ埜々香一号』は、雪ダルマEOSの下《した》敷《じ》きとなって早々と昇天し、巴の放ったオリジナル必殺技『大《だい》爆《ばく》発《はつ》奏《そう》鳴《めい》曲《きょく》・ザ・スペシャル』は大げさに光り輝《かがや》いただけでEOSの足止めにしかならず、眠たそうな埜々香が眠たそうに演奏するアルトリコーダーは何の曲なのかも解《わか》らないくらいトチりまくりで、そのせいで三匹の精霊犬も埜々香の足もとで夏バテしたかのように舌を出して転がっていた。  凌央などは、車を降りて以来ピクリともせず立っているだけだ。寝ているのかもしれない。  僕は両手で即席メガホンを作って叫んだ。 「頼むよ、琴梨」  真夜中でもハイテンションな琴《こと》梨《り》が頼りだ。なんでも、深夜ラジオを聞きながらグフグフ笑っていたという彼女は、僕を含めてこの場で唯一頭のはっきりしている人間だ。そのくせ地下の司令室に集合したのは一番最後だったけど。 「まーかしといてーっ! ちゃっちゃっと終わらせるよっ。帰ったら夜食作ってよね、ひーくんっ!」  琴梨は僕がオッケーサインを出すのを見て、親玉トロールのような笑顔《えがお》になると、 「そりゃあっ!」  威勢よく叫んでスケボーごと加速した。その身体《からだ》がみるみるうちに青い光に包まれる。全身とスケボーを<<あたらんて>>の次元エネルギーで覆《おお》った琴梨は、おそらく瞬《しゅん》間《かん》的《てき》に光速の数パーセントくらいは出ているだろう、とんでもない速度でジャンプすると蛍光ピンクの不気味な雪ダルマに体当たりを敢《かん》行《こう》した。  どどーん。八尺玉が飛散するような音を道連れに、琴梨はEOSのど真ん中をぶち抜いていた。開いた大穴から見えるのは、青い光を瞬《またた》かせつつ空中で身体をひねっている琴梨の華《か》麗《れい》な姿だ。 「<<核>>はどうなった?」  僕はかたわらのガニメデに訊《き》いた。いくら攻《こう》撃《げき》しても<<核>>を破《は》壊《かい》しない限りEOSは無限に復活する──。忘れそうになっていたが、そういう設定もあるのだった。 『ご安心ください。琴梨さんも何も考えずに突撃したわけではなさそうですよ。ほら』  ガニメデのマニピュレータが指差す方向を見る。宙を舞《ま》う琴梨が地面に着地しようとしているところが目に映り、それから別のモノも舞い落ちようとしていた。  回転する赤黒い円《えん》盤《ばん》状《じょう》物体。フリスビーみたいなそれは、EOSの<<核>>で間違いない。  どうやら琴梨は体当たりでEOSを貫通する拍子に<<核>>を雪ダルマから弾《はじ》き飛ばしていたようだ。なんとなく偶然っぽい感じがするけど。 「よっ、とおっ!」  空中で体勢を整《ととの》えた琴梨は、落下する<<核>>を追うようにスケボーの底を向けた。そして着地。  がしゃん。ガラスが砕《くだ》けるような音がして、スケボーの車《しゃ》輪《りん》と地面に挟まれた<<核>>が四散した。 「あー。雪ダルマがー」  あろえがもったいなさそうに言うのを尻《しり》目《め》に、穴あきEOSがドライヤーをあてられた本物の雪ダルマのように溶け崩れていく。構成物質を粉雪のように振りまきながら、EOSは一分とかからず地上から消滅した。 「やっほう!」  スケボーに乗った琴梨がするすると近づいてくる。 「すぐに終わっちゃって物足りないなっ。もうちょっと遊んでいたかったよ!」 「何を言いますか」  反《はん》論《ろん》するのは巴《ともえ》である。 「これは遊びではありません。世界を守るという立派なお仕事ですわ。その割には、最近お給金の支払いが滞《とどこお》っておりますが」  巴は竹刀《しない》を肩に僕に流し目を送ってきた。僕はさりげなくガニメデに顔を向け、 「なあ、爺《じい》さんのタンス貯金がどこにあるか知らないか? 僕が知ってる銀行口座にはもうほとんど残ってないんだけど」 『地下室の奥の金庫に入っているのではないですかな』  ガニメデはレンズをぐるりとさせて、 『ただしそこに行くには三重の耐《たい》爆《ばく》ドアと三十六|桁《けた》からなる暗証番号が必要です。実にシンプルなシステムになっておりましてですね、いやはや、超々高度人工知能である私にしてみればあまりに原始的な器械ですので、かえって困りものといったところですな』 「何のイイワケだよ」 『イイワケではなく客《きゃっ》観《かん》的《てき》事実です。あなただって、XとYを使わずに鶴《つる》亀《かめ》算《ざん》を解けと言われたら何を今更と思うでしょうが』 「暗証番号くらい解析してくれよ」 『三十六桁、しかも英数字をランダム使用した無秩序配列、ドアが三つでさらにその三乗、加えて金庫の解除キーを含めると計算にどれほどの時間がかかるかご存じですか?』 「知らない」 「計算する気にもならないくらいの膨《ぼう》大《だい》な時間です。私の超々高度人工知能プロセッサはそんな面《おも》白《しろ》くもなんともない単純計算のためのものではありません』  レンズの回転速度を上げながら、 『五人のお嬢《じょう》さんがたのこの日この時間にしかない、美しく愛らしく、時には清《せい》楚《そ》で時にはしどけない芸術的身体的特徴及び状況をピコセカンドの漏れもないように記《き》録《ろく》することこそが最重要任務なのです!』  放っておくと長くなる。僕はガニメデを車から摘《つま》み上げると地面に落として踏んづけた。 『あんまりですよ、秀《ひで》明《あき》さん! おおっ見えない! アシモフ博士、私、三原則を破ってしまってよろしいでしょうか!?』 「というわけでさ」  僕は巴に言った。 「給金のほうは待っててくれ。そのうち何とかするからさ。そろそろバイト先を探そうと思っているところだし」 「絶対ですわよ」  意外にも巴《ともえ》はあっさりうなずいて横を向いた。そればかりか、 「……そうですわね。何でしたら生活費の足しにわたしもどこかでアルバイトをしても……その、よいかもしれませんわ。校則違反ですので気は進みませんが……」  チラチラと僕を窺《うかが》いながら呟《つぶや》くように言っている。バイトより家事全般を手伝ってくれたほうが助かる、と僕が答えようとしていると、 「それよりさっ!」  琴《こと》梨《り》が横から顔を突っ込んできた。 「EOSは簡《かん》単《たん》に消えてくれちゃったし、ちょっとここで遊んでいこうよっ」  まったく脈絡のない提案を笑顔《えがお》で発する。暗い運動場の隅にあるバスケットゴールを指差して、 「あれで3オン3やろうよ! ちょうど六人いるしさ。組み分けはどうするっ?」 「ボールはどうするのです?」  巴がつい釣られたように問い返し、あわてて言い直した。 「いいえ琴梨。いま何時だと思っているのです。明日《あした》が休日とは言うものの、バスケして遊ぶには非《ひ》常《じょう》識《しき》な時間です」  しかし琴梨は前半部分のみに返答した。 「ボールならこれでいいじゃん!」  さっと手を伸ばして取り上げたのは、僕が踏みしめていたガニメデだった。 「ガー、ちょっとボールに似てるもんねっ! 重さもちょうどいいしっ!」 『ご無《む》体《たい》な』  ガニメデは情けなさそうに言いかけて、 『いや待ってください。考えようによっては素《す》晴《ば》らしいことなのかもしれません。お嬢《じょう》さんがたの手から手に渡されたり奪い合われたりする私、ガニメーデス……。おお、だんだん恍《こう》惚《こつ》としてきました』  そこにあろえがやってきた。眠たげに目を擦《こす》る埜《の》々《の》香《か》の手を引いている。 「えー、帰ろうよー」  埜々香は半分居眠り状態だったが、あろえも相当に目《ま》蓋《ぶた》が重くなっているようだった。 「遊ぶのは明日でもいいしー。今日《きょう》はもうネムネムだよ」  あろえの正直なセリフを聞いて僕の方向性も決まった。 「帰ろう。琴梨、暗いし眠いしこんなコンディションでバスケしても面《おも》白《しろ》くないぞ。お前が一人でシュートし続けるだけになっちまう」 「むむっ。それは面白くないよっ」  琴梨は笑顔の中にも拗《す》ねた表情を滲《にじ》ませ、ボール代わりのガニメデをばんばんとドリブルした。 『オゴウッ、ガガッ……!』  羊人形が何か妙な音を立てていたが、せっかくのボール志《し》願《がん》だ。そのままにさせておいてやろう。 「あら、まあ?」  巴《ともえ》が変な声を出した。見ると、凌央《りょう》の顔の前で手を振りながら、 「凌央ったら、目を開けたまま眠っておりますわ。道理でまったく動かなかったはずです。起きなさい、凌央。すべて終わりました」  あろえと埜《の》々《の》香《か》はすでに後部座席に収まり、肩を寄せ合ってうつらうつら。どうやっても目を覚まさない凌央は巴の手によって同じく後部座席に搬《はん》入《にゅう》された。その巴は自分の指定席である助手席に腰を落ち着け、残るは琴《こと》梨《り》のみとなる。 「行くぞ、琴梨」  僕の掛け声に、琴梨はドリブルしていたガニメデを頭の上に構えた。羊のぬいぐるみはピクピクしながらところどころ煙を噴《ふ》いている。壊《こわ》れてないといいけど、いっそ壊れたほうが性格の直しがいがあるかもしれない。 「えいやっ」  最後に琴梨は遠くのバケットゴールに見事なスリーポイントシュートを決め、転々とするガニメデを拾ってきて車に乗り込んだ。 「あー暴《あば》れたりーんっ。ひーくん、明日《あした》どっか遊びに行こうねっ!」  横にいた巴がぴくんと頬《ほお》を揺らすのを見ながら、僕はうなずいた。 『やはりボールの身代わりは無理がありましたね』  ガニメデの声は羊からではなくカーナビから聞こえた。 『自分が精密|機《き》器《き》であるのを失念しておりました。防水加工に引き続き、耐|衝《しょう》撃《げき》機能も付けてもらわねば』  車が発進すると同時にフロントガラスに水滴が落ちてきた。巴が首をすくませて、 「雨ですわ。ガニメーデス、急いでください。このままでは濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》です」 『了解しました』  ワイパーが稼《か》働《どう》を始めたが、この車は幌《ほろ》なしのオープンカーなので別に役には立たない。  ぽつぽつと降ってきた雨は、車が屋《や》敷《しき》に着いた直後に本降りとなった。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  その空模様は次の日にも延長されていた。今日《きょう》は朝から雨である。こんな日に外で元気よくしているのはカエルかカタツムリくらいのものだろう。 「つまんないようっ」  リビングで子供のように手足をバタつかせているのは、言うまでもなく琴梨だった。 「外で遊びたいっ。バスケしたいっ。サッカーしたいっ。何でもいいから身体《からだ》動かしたいよっ」  もう昼過ぎだというのに、朝からずっとこの調《ちょう》子《し》である。 「琴《こと》梨《り》、いい加減にしなさい」  巴《ともえ》が目を近づけて読んでいた新聞のテレビ欄《らん》から顔を上げて、 「ジタバタしても雨はやんだりしないものです。テルテル坊主でも作っていたらどうです。暇つぶしにはなりますわ」  ちなみにずぶ濡《ぬ》れになっていたその朝刊は巴が几《き》帳《ちょう》面《めん》にもアイロンがけして乾かしたものだった。それにしても目を細めて新聞読むくらいだったら、胸もとに挿《さ》している眼鏡《めがね》をかければいいのに。 「だってさあ」  琴梨は仰《あお》向《む》けのまま、 「せっかく今日《きょう》はひーくんがどっか連れてってくれるって思ってたのに、イヤになるさっ。今すぐ雨やめっ。やんでくれよん!」  なおもブツブツ言いながら琴梨はリビングで背泳ぎを始めた。 「よしなさい、湿度が増します」  巴の呆《あき》れ声を背にして、僕は居間を出て行った。夕食のための食材が冷蔵庫に残っているか確《かく》認《にん》するためだったが、その途中で勝手口で猫たちに囲まれている二人の娘、あろえと埜《の》々《の》香《か》を発見した。 「はいはーい、みんな並んで並んでー。順番順番」  何をしているかと思えば、あろえは猫の足の裏を濡れタオルで拭《ふ》いてやっている。 「外から帰ってきたねこにゃんは足が泥だらけだからー」  と、あろえは言った。 「家に上がる前にキレイキレイしてあげてるの。ね? ののちゃん」 「はううう……」  埜々香の手《て》際《ぎわ》は決していいとは言えないものだったが、猫のほうもちゃんと解《わか》っているらしく、くすぐったそうな顔をしてじっと我慢しているように見えた。  足拭きの終了した猫から、さっと二人の手を逃れて廊下へ走り去る。縁《えん》側《がわ》で昼寝でもするのだろう  あろえは嬉《うれ》しそうに、 「はい、坂《さか》下《した》さん終了ー。次、ワンタンね」  坂下さんなるブチ猫はお礼のように「にゃっ」と短く鳴いてから、身体を埜々香に擦《こす》りつけるようにして立ち去った。  あろえならば巴が計画している猫への芸の仕込みも可能なのではないかと思いつつ、ついでに僕も猫の後を追って縁《えん》側《がわ》へ向かう。一定の間《かん》隔《かく》で寝そべる猫たちを踏まないようにして裏庭側の窓に近寄ると、降りしきる雨の中でカラフルな傘を差す人《ひと》影《かげ》がポツンと立っているのが見えた。  小さくて髪の長い後ろ姿は凌央《りょう》のものだ。庭の植え込みの前で微動だにせず立ち続けているが、たぶんカタツムリか何かをじいっと眺めているのだろう。厚い雲に覆《おお》われた薄《うす》暗《ぐら》い風景にあって、その凌央の姿は絵画にしてもいいくらいに映えていた。 「平和だな」  いつまでも続いて欲しい、そんな気がしてくるほどピースフルな時間だった。しばらく意味もなく心地《ここち》よい余《よ》韻《いん》に浸っていると、 「やあ、ひーくん。ちょいとこれぶら下げるの手伝っておくれよっ」  琴《こと》梨《り》が新聞紙で作った巨大なテルテル坊主を振り回しながら飛び込んできた。  よく見るとさっきまで巴《ともえ》の読んでいた朝刊でできている。思いっきりアカンベーしている顔が油性インキで描かれてて、誰《だれ》かに似てるなと思ったら、僕だった。 「描いたのは巴さっ。あろえよりは上手《うま》いかなっ? へっへへー」  スイッチを切り替えたかのように、琴梨の笑顔《えがお》は無秩序なまでに明るい。僕は差し出されたテルテル坊主を受け取って、縁側の軒《のき》先《さき》に吊《つる》してやった。  琴梨は満足そうに眺めていたが、すぐにまた別の切り替えスイッチが入ったようで、 「猫くんたち! ヒマなら一《いっ》緒《しょ》に遊ぼうっ。とりあえず片っ端からお風《ふ》呂《ろ》で洗ってあげるよっ」  とにかく身体《からだ》を動かせるなら何でもいいのか、琴梨は縁側でダマっていた猫の群れに突進した。不吉な前兆を本能で感じたように逃げまどう小さな獣《けもの》たちを、やすやすと捕《ほ》獲《かく》し、両手一杯に猫数匹をしがみつかせて、 「大漁大漁っ!」  まるで戦利品を押《おう》収《しゅう》した戦勝軍司令官のような高笑いをあげ、大《おお》股《また》で縁側のある和室を出て行った。  猫の上げる抗《こう》議《ぎ》の声を一《いっ》顧《こ》だにせず、それどころか、 「あっ、のの。ついでだからののも洗ったげるよ! 風呂だ風呂っ」  たまたま通りがかったのが運の尽き、 「わわ、わひい」  首の後ろをつかまれた埜《の》々《の》香《か》がズルズル引きずられて浴室方面に連行された。まあ、これも平和な日常の一種として思えなくもないか。  僕が廊下に出てその様《よう》子《す》を見ていると、巴がリビングから顔を覗《のぞ》かせてしかめっ面《つら》を作っていた。そして猫の足を拭《ふ》き終えた雑《ぞう》巾《きん》を持って歩いてきたあろえに、 「いけません。このままでは埜々香が猫用シャンプーで頭を洗われてしまいます。あろえ、あなたも行って琴《こと》梨《り》をどうにかしてきなさい」 「そだね。あ、巴《ともえ》ちゃんも一《いっ》緒《しょ》にお風《ふ》呂《ろ》入ろうよ。みんなで入ると楽しいよ」  あろえは僕にまで目を向けた。 「ひーくんも入る? 混浴!」  冗《じょう》談《だん》っぽい笑《え》みだが、あろえはいつもこんな笑みなので本気かもしれない。すでに上着の裾《すそ》に手をかけてるし。 「ダメですっ! 百二十パーセント絶対的によくありません!」  巴がすかさず叫び、僕を睨《にら》んだ。 「そういやガニメデはどうした? 朝から姿が見えないけど」  と、僕もさりげなく話を逸《そ》らした。まさか本当に混浴するわけにもいかず、こういう状況で必ずしゃしゃり出てくるはずの羊人形がどこにもいないのが少しは気がかりだ。  その疑問には巴が答えてくれた。 「ガニメーデスなら、メンテナンスのために地下の研究室で縛《しば》り付けられておりますわ。たしか凌央《りょう》が修《しゅう》繕《ぜん》していたはずですけど」  その凌央は庭で立ちつくしているから、きっと途中で放り出されているのか、手間のかかる改造の中休み中なのか、どちらにしてもうるさいヤツがいなくてますます平和だ。 「ともかく!」  巴はキツイ目で僕とあろえを見据え、 「あろえは風呂場に、博士の孫のかたは風呂場以外のどこかに姿を消してください。よいですわね!」 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  テルテル坊主の効力か、それとも琴梨の元気波動が天空にまで届いたのか、雨は夕方にあがってくれた。空はまだ灰《はい》色《いろ》だが申しわけ程度のスポットライトとして、曇《どん》天《てん》の中から幾筋かの陽光が地上を照らしてくれていた。  これで傘を持たずに晩飯の買い物に行ける。  あろえは猫たちの毛と埜《の》々《の》香《か》の髪を同じようにわしわしタオルで擦《こす》ってやっているし、巴は居間で夕刊とニラメッコ、凌央はいつのまにかどこかに姿を消して、おそらく地下室でガニメデに改造を施《ほどこ》しているんだろう。  そして僕がポケットに財布を突っ込み、玄関口で靴を履《は》いていると、 「お出かけかいっ。あたしも行くよっ!」  琴梨がスケボーを持ってドタドタ走ってきた。はち切れんばかりの笑顔《えがお》で、 「やあ、雨がやんでよかったよっ! あとでテルくんにお供《そな》え物《もの》をしないとねっ。でさぁ、どこ行くんだい? ひーくんっ」 「スーパー。晩飯の買い出しだよ」 「なんだ、近いなあ。でも、まあいいやっ。スケボーで行ったら早いよ! さあ! ひーくん、乗ってけ!」  琴《こと》梨《り》はさっさとスニーカーを履《は》き終え、僕に身体《からだ》ごとぶつかって扉へと追いやった。 「乗るって……。スケボーにか?」 「そうだともさ! 二人乗りだっ」  スケボーの二人乗り? なんだかとてつもなく危険な香りがするんだけど。 「だーいじょーぶっ! コケたりしないからさっ。気持ちいいよ!」  外に出られることがよほど嬉《うれ》しいらしい。琴梨はいつにも増してハイになっていた。三日ぶりの散歩に出された子犬みたいだ。  玄関で騒《さわ》いでいたからだろう、 「あら」  巴《ともえ》がリビングから上半身を出した。僕と琴梨を眺めて、 「出かけるのですか? 二人で?」  不《ふ》機《き》嫌《げん》そうな口《く》調《ちょう》だったが、琴梨が持つスケボーを見て表情を引きつらせた。琴梨は白い歯を見せつけつつ、 「なんだったら巴っ。一《いっ》緒《しょ》に行くかい? 三人乗りに挑戦だっ」 「け、けっこうです。わたしは二度とあのような目に遭いたくはありません」  たちまち青ざめた巴は、素《す》早《ばや》く身体を引っ込めて姿を隠す。巴の顔にまぎれもない恐怖の色がかすめたのを僕は見た。 「ささっ。行こうか、ひーくん! スーパーまでまっしぐらだっ」  琴梨に腕を取られて僕は屋《や》敷《しき》の外庭に出た。あちこちにある水たまりが雲を映し、土が雨をすって黒くなっているのも気にせずに、琴梨は愛用のスケボーをポイっと放り、スニーカーの爪《つま》先《さき》で器用に受け止めてから地面に置いて指を差す。 「乗って乗って!」  言われたとおりに足を乗せる。琴梨はひょいと僕の後ろに飛び乗って、ぎゅっと身体を押しつけてきた。 「もうちょい前っ。こらこら、そんなに離《はな》れたらダメじゃん!」  そうは言っても、その、何だろう。背中に当たるやたらとふくよかな感触がどうやったって気になってしかたがない。 「じっとしておくれよっ」  笑いながら琴梨は僕の腰に手を回し、熊《くま》がサケを抱えるように力を込めた。そうなると僕の背中はどこにも逃れようがなく、ひたすら琴梨の上半身を押しつけられるがままになっていた。  首の後ろにかかる笑いを含んだ吐《と》息《いき》がくすぐったくてムズかゆい。以前ガニメデが言っていた五人の身《しん》体《たい》プロフィールを思い出した。それによると最もグラマーなのが琴《こと》梨《り》で、その何というか、数値的にトップを誇る胸部が今は僕の背に密着しているわけであって、これは心《しん》臓《ぞう》にちょっとした負担がかかるような状況だった。  背中に当たる感触は予想外に柔らかい。 「……琴梨、あまりくっつくなって」  風《ふ》呂《ろ》から上がって間もない琴梨は、やけに艶《つや》っぽい香りを発していた。 「わはは、くすぐったいかい?」  天《てん》真《しん》爛《らん》漫《まん》に笑いながら、琴梨は熱《ねつ》っぽい身体《からだ》を無邪気にぐいぐい押してくる。ガニメデがいなくて幸いだった、こんなところを見られていたら、またやかましく騒《さわ》ぎ立てるだろうから。  しかし、そんな僕の甘やかな思いもそれほど長くは続かなかった。 「じゃ、出発だっ」  号令一発、琴梨は地面を蹴った。ぬかるんだ大地をものともせず、僕と琴梨を乗せたスケボーがロケットスタートボタンでも付いてたのかという勢いで急発進、 「うわ」  のけぞりかけた僕を琴梨が後ろから支えてくれた。 「ひゃほー!」  二人乗りのスケボーはあっというまに門を通過し、アスファルトの道路に出ることで勢いを増した。  忘れてた。  屋《や》敷《しき》を出てすぐの道が、急な坂道になっていることを。  琴《こと》梨《り》は絶妙のバランス感覚でスケボーを誘《ゆう》導《どう》、進路をまっすぐ坂の下へと向けた。 「☆×÷○△!」と僕。 「いえーいっ」と琴梨。  スケートボード、それも二人乗り。曲芸というしかないアクロバットだ。  ここで思い出して欲しいのだがこの世には重力というものがあって、上から下へ向かう物体は基本的に加速することになっている。 「うわあああ!」  僕は叫ぶ。 「琴梨、ブレーキブレーキ!」 「ないよ、そんなのっ」  坂の途中、おまけに僕はスケボー初心者、すべてのコントロールは軽やかに笑い声を上げる琴梨の腕に託されている。  ちぎれるように飛んでいく風景を視界の端っこで捉《とら》えながら、坂道を疾《しっ》駆《く》する車《しゃ》輪《りん》付きの板の上で、僕は巴《ともえ》がジェットコースター嫌《ぎら》いになった理由が解《わか》ったような気がした。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  琴梨の操《そう》縦《じゅう》によるスケボーはDマニューバなしなのにちっとも速度を緩《ゆる》めず、直角の曲がり角でもそのままのスピードでターンした。すべては琴梨の名人芸のような体重移動センスのたまものだ。 「ひーくん、次の道、右? 左?」 「……みみ、右っ」 「ほいさっ」  強烈な横Gとガリガリとアスファルトを擦《こす》る板の火花が僕の目をくらませる。  そのおかげでスーパーマーケットに到着するまで、たぶん数分とかかっていない。しかし、それは恐怖の時間という以外に何も言うことができないくらいの戦《せん》慄《りつ》を僕に与えてくれた。邪悪な暗黒神が海を割って復活したとしてもこれより怖くはないと自信を持って言える。よい子は絶対に真《ま》似《ね》してはならない。  県道の制限時速を軽くオーバーしているワンボックスカーを楽勝で追い抜くスケボーに、しかも二人乗りという真似なんかしていれば誰《だれ》だって生命の危険を感じていいだろう。 「あ。僕、死んだな」と思った回数が数え切れないほどだった。  よって、スーパーの駐《ちゅう》輪《りん》場《じょう》でようやく止まったスケボーを降りたとき、僕は文字通り腰を抜かしてへたりこみ、そんな僕を愉快そうな笑顔《えがお》で見下ろしながら琴《こと》梨《り》が言った。 「ややっ、ひーくん? 楽しくなかったかい? あたしはすっこい楽しかった!」  そう言えば明るい笑い声が背後から聞こえていたような気もする。声もなく額《ひたい》の汗をぬぐう僕に、 「うーん、巴《ともえ》と同じ反応だねっ。速いのは苦《にが》手《て》だったのかなっ?」  ああ、やっぱり。僕はよろよろと立ち上がり、 「……巴も二人乗りをやったことがあるんだな」 「ずっと前だけどね! 小学校くらいのときさっ。三回くらいやったげたよっ」  そりゃ速い乗り物|嫌《ぎら》いになってもしょうがない。今なら巴の気分がよく解《わか》る。 「今じゃ巴を誘っても逃げるだけだからさっ。この前はあろえを乗せたげたよ。うーん、喜んでたけどなあっ」 「あろえならまだいいけど、埜《の》々《の》香《か》を乗せるのだけはやめといてくれよ」 「それは困ったな!」  琴梨はスケボーを肩に担ぎ上げ、 「もうやっちゃったし!」  僕は目の上を押さえた。 「でもさっ、ののは平気みたいだったよ! ずっと黙《だま》ったままおとなしくしてたしさっ」  それは途中で気絶してしまい、最後までそのままだったからだろうと思う。 「それに凌央《りょう》も何にも言わなかったなあ!」  僕はパッチリと目を開けた無表情な凌央が黙《もく》々《もく》とスケボーに乗っている姿を想像し、納得した。いったいどうやったら凌央を驚《おどろ》かせることができるのか、そっちのほうが想像できない。  とりあえず宣言しておく。 「帰りは歩くぞ。上り坂だし、というかスケボー二人乗りはやっぱり無理だ」 「えーっ? あたしなら上り坂でも平気だけどっ!」  琴梨は可愛《かわい》らしく唇を尖《とが》らせるが、これだけは譲《ゆず》れない一《いっ》線《せん》だ。 「それからスケボー二人乗りは禁止しといてくれ。特に埜々香は絶対乗せないように。いいな、琴梨」 「ふーん?」  しばらく琴梨は口をウネくらせていたが、すぐに健康的な白い歯を見せて、 「ま、いいやっ。ひーくんがダメっていうんならやめとくよっ。その代わり、今日《きょう》の晩ご飯はあたしの好きなものにしてよねっ」  そのくらいならおやすい御用だ。オーダーの内容と財布の中身にもよるけど。 「カレーがいい!」  琴梨はさっと僕の手を引いて、スーパーの自動ドアを目指した。 「とびっきり辛《から》いヤツがいいなっ。口から火ぃ吹きそうなの! どんどん辛くしよう、どんどん!」  僕の足はまだガクガクしているので、元気よく歩く琴《こと》梨《り》に引きずられるように食料品売り場に向かいながら、ルーは二種類用意したほうがいいなと考えていた。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  カレーとは無関係な物をカゴに入れたがる琴梨をなんとか制しながら、やっとのことで買い出しは終わった。  そうしてスーパーを出た僕と琴梨は、食料品の詰まった袋を抱えてのんびりと帰りの道を歩いていた。  曇《くも》り空だった天候はすっかり機《き》嫌《げん》を回復し、綺《き》麗《れい》な夕焼けが天空の大部分を染めている。 「もっと早く晴れてくれてたらなあっ」  琴梨はスーパーの袋を持った手をぐるぐる回しながら残念そうに空を見上げ、 「でも猫洗いも面《おも》白《しろ》かったし、今夜はカレーだし、まっいっかっ」  何事も引きずらずあっけらかんとしているのが琴梨のいいところだ。彼女に「ま、いっか」と言われたら、どんなに気分が落ち込んでいてもだいじょうぶのような気がしてくる。巴《ともえ》は腐《くさ》れ縁《えん》のように言っていたが、なんだかんだと二人はけっこう似合いのコンビだ。  歩いているうちに河原にさしかかった。土手の上の散歩道をゆっくり歩いていると、 「あっ、犬だっ!」  琴梨の指差すほうを見る。犬を連れたお爺《じい》さんが、川べりのベンチに腰掛けて水面を眺めていた。引《ひ》き綱《づな》に繋《つな》がれたポメラニアンは元気いっぱいで、飛び跳ねながら散歩の続きを催《さい》促《そく》しているようだが、飼い主はちょっと小休止といったところだ。 「ひーくん、これ持ってて!」  琴梨は買い物袋とスケボーを僕に押しつけると止めるまもなく、 「やほー、犬くーん!」  土手を一気に駆け下りて、お爺さんとポメラニアンに走り寄った。 「あたしに散歩させてくんないかなっ、犬と一《いっ》緒《しょ》に走りたい気分なんだよっ」  お爺さんに話しかけている。いきなり走ってきた琴梨に、ポメラニアンはまるで同族に相対したような目を向けて、足もとにじゃれついた。  僕は両手に満載となった荷物を抱え、まだ雨《あま》露《つゆ》の残る土手を滑《すべ》らないように用心して下りる。琴梨はしゃがんでフサフサの犬の頭を撫《な》でており、その飼い主は孫を見るような顔を琴梨に向けていた。人のよさそうなお爺さんだった。 「ほうほう」  お爺さんは皺《しわ》深《ぶか》い顔を微笑《ほほえ》ませ、 「代わりに散歩させてやってくれるのかい? そりゃ大助かりだな。こいつも私に合わせて歩いてくれているが、本当はもっと走り回りたいだろうからね」  尻尾《しっぽ》をワイパーのように振っているポメラニアンも同意のようだ。 「ありがとっ」  リードを渡された琴《こと》梨《り》は嬉《き》々《き》として、 「犬くん! 走り回ろう! そら、行くよっ」  全力疾走で駆けだした琴梨と茶《ちゃ》色《いろ》の犬の後ろ姿は、瞬《またた》く間に河原の向こうへと消えた。 「すみません」  声をかけた僕に、微笑《ほほえ》ましげに琴梨と飼い犬を見送っていたお爺《じい》さんは顔をひょいと上げて、 「妹さんかな? いいねえ。元気だねえ」 「本当に」 「座ったらどうかな」 「ありがとうございます。そうします」  僕は横にスケボーと袋を置いて、お爺さんが開けてくれたスペースに腰掛けた。 「私にもあれくらいの孫がいてね」  どこか懐《かい》古《こ》的《てき》な声だった。 「最近は会ってないが、きっとあの娘《こ》のように元気でいるだろうな。便りがないことは健《すこ》やかでいるという便りでもあるからねえ」 「ええ」  僕も自分の爺《じい》さんのことを思い出していた。少し前に幽《ゆう》霊《れい》みたいな姿で戻ってきて、またすぐ消えてしまったきり連絡はないが、心配することもなく異次元でもどうにかやっていることだろう。ぴょろすけも一《いっ》緒《しょ》に。  それより今度爺さんが帰ってきたときには、地下扉の暗証番号を是非とも聞いておかなければ。  その後、僕とお爺さんはポツポツと世間話のような会話をしていたが、やがて言葉が途《と》切《ぎ》れたと思ったら、お爺さんはウトウトとうたた寝を始めていた。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  琴《こと》梨《り》が戻ってきたのは、それから三十分近く経《た》ってからだった。全力で走っていった琴梨はやはり全力で戻ってきたらしく、犬のほうがすっかリバテていた。  琴梨に付き合って走ってきたポメラニアンは、ベンチの前で止まると同時にコテンと倒れ、舌を出してハァハァ荒い息をしている。ちなみに琴梨の息は深呼吸一つで元通りになった。 「お爺さん、あんがとっ。久しぶりに楽しく走れたよ!」 「おやおや」  居眠りから戻ってきたお爺さんは、琴梨から渡された綱《つな》を握って目を細めた。 「もういいのかい?」  たとえよくなくても犬のほうがどう見ても限界だ。 「うんっ」  琴梨は頬《ほお》をつたった汗を指先で弾《はじ》き飛ばし、 「犬くんもありがとさんっ。また走ろうねっ」  横倒しになっていたポメラニアンは、ぱさりと尻尾《しっぽ》を振ってからよたよたと立ち上がり、 「わふっ」と答えた。 「いつもこの時聞に散歩させているからね」  と、お爺さんはしきりとうなずいて、 「なんだったら、いつでも自由に遊んでやってくれていいよ。こいつもキミが気に入ったみたいだ」 「わお、ホントっ? やったぁ。あ、もう一人連れてきてやっていいかなっ。のの、っていう子なんだけどさ。犬大好きな可愛《かわい》い子だよ!」 「いいよ。大歓迎するよ」 「わふ」  微笑《ほほえ》む飼い主の言葉に、犬も同《どう》調《ちょう》するように鳴いた。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  一人と一匹に別れをつげ、沈みかけの夕日を横に僕と琴《こと》梨《り》は屋《や》敷《しき》へ向かう道に戻った。琴梨はスケボーに片足を乗せ、歩く僕の速度に合わせてゆるやかに進んでいる。 「早く戻ってくるといいねっ。ぴょろすけっ」 「そうだな」 「博士もっ」 「ああ」 「それからさっ」  琴梨は先行していたスケボーを止めて、僕を振り向いた。 「ドンパチのことなんだけどさ! できれば、あろえとののはあんまり矢《や》面《おもて》に立たないようにしたいんだよねっ」 「EOSとの戦《せん》闘《とう》のこと?」  僕は琴梨の顔を見返し、琴梨はいつもの猫的な笑顔《えがお》で答えた。 「そっさ。ののはまだちっさいし、あろえは無理してがんばる娘だからねっ。凌央《りょう》はよく解《わか》んないけど、でもさっ、無理はさせらんないよ。三人は中等部だもんね。あたしと巴《ともえ》でなんとかなるんだったらそうしてやりたいのさっ。うん、そのほうがいいよっ」  琴梨がそんな真《ま》面《じ》目《め》なことを言い出すとは思わなかった。 「実は巴と相《そう》談《だん》して決めたんだよっ。巴は意地っ張りで言えないから、あたしがひーくんに言うことにしたのさっ」  僕はマジマジと琴梨を見つめ、それから巴のぷいっとした横顔を思い浮かべ、そしてうなずいた。 「わかった。言われてみればその通りだよ。幸い、巴の<<えりす>>とお前の<<あたらんて>>は強力だしな……」  あろえの<<あぐらいあ>>と埜《の》々《の》香《か》の<<へかて>>は持ち主の手腕が特に問われる効果を持っている。その二人が自分の能力を生かし切れていないのも真実だった。それぞれ絵と笛が不得意なんだからしかたがない。使いこなせているのは<<でうかりおん>>を持つ凌央くらいだった。 「じゃあ頼んださっ。ひーくん、ドンパチするときはそういうふうに指示しておくれよっ」  僕が首《しゅ》肯《こう》すると、琴梨は笑い袋のような声を上げてスケボーを転がした。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  屋敷に戻った僕を真っ先に出迎えたのは、ガニメデの機《き》械《かい》合成音だった。 『秀《ひで》明《あき》さん、私はあなたにクレームをつけなければなりません』  下《げ》駄《た》箱《ばこ》の上に鎮《ちん》座《ざ》する羊のぬいぐるみはギョロリとカメラレンズを回し、 『どうしてもっと早く地下室から解放してくれなかったのです? 聞くところによりますと、風《ふ》呂《ろ》場《ば》で琴《こと》梨《り》さんとあろえさんが二人して埜《の》々《の》香《か》さんに何やら楽しげな振《ふ》る舞《ま》いに及んでいたという話ではないですか。どうして! どうして私はそこにいなかったのでしょう? そこでいったい何が行われたと言うのか! 何としてでも同席し、私も琴梨さんに何かされたかった! 私のこの魂《たましい》の絶叫が聞こえますか!?』  すまないが聞こえないし、ガニメデのパーツのどこに魂があるのかも不明だ。  琴梨は食材袋を上がり口に下ろして、 「猫洗ってただけだよっ。ののはあろえが洗ってた。そんだけさっ」 『それだけでも私の魂を揺さぶるのに充分です。猫を洗うのであれば私の身体《からだ》もお洗いください! 防水対策は万全、録《ろく》画《が》の準備ならいつでも整《ととの》っております!』 「あっはっは。また今度ねっ」  琴梨はガニメデを持ち上げて宙に一回放り投げてから僕にパスしてよこし、カレーの材料が入った袋を両手に提げてキッチンへ姿を消した。 『ずいぶん長いこと買い物に行っていたようですが』  ガニメデが声をひそめるようにして言う。 「そうか?」 『巴《ともえ》さんがずっと時計ばかり見ていましたから、そうなんだと思いますが』 「途中で犬の散歩とかしてたしな」  ガニメデにも教えておこう。僕は琴梨が語った今後の戦《せん》闘《とう》方針を告げた。 『なるほど』  ガニメデは眼球レンズの絞りを開け閉めし、 『もっともで論《ろん》理《り》的《てき》な戦術です。琴梨さんと巴さんが前《ぜん》衛《えい》、あろえさんと埜々香さんを後衛に配置し、凌央《りょう》さんを守り役に置く──と。これまでに出現したEOSの戦闘パターン分析からみても、それでだいたい上手《うま》くいくと思われます。以前のようにお嬢《じょう》さんがたが分断されることさえなければ』  そいつが一番の問題でもあるが、でもまあ、なんとかなるだろう。そのうち爺《じい》さんも戻ってくる。たぶん、歪《ゆが》んだ次元だか何だかを修復する機《き》械《かい》を作って。  その時が来るまで彼女たちを見守っていよう。今ここにいる僕にできることは、それくらいしかないのだから。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  ガニメデを小《こ》脇《わき》に台所まで行く。  あろえが袋から取り出した食材を仕分けしているところで、琴梨はキッチンシンクで水道水を蛇《じゃ》口《ぐち》から直接飲んでいるところだった。 「今日《きょう》、カレー?」  ルーの箱を手に、あろえは花束のような笑顔《えがお》を咲かせた。 「でも、ひーくん。ジャガイモがないよ。ジャガなしカレー?」 「え? 冷蔵庫になかったっけ?」 「一昨日《おととい》のマッシュポテトで全部使っちゃったよ」  あろえは几《き》帳《ちょう》面《めん》にニンジンやタマネギをテーブルに並べながら、 「代わりに何か入れよっか。あたしは甘いのが好きだから、そうだなー」  考え込むあろえが妙な物をカレーに入れたいと言い出さないように祈っていると、 「カレーにジャガイモは必《ひっ》須《す》だよっ!」  琴《こと》梨《り》が蛇《じゃ》口《ぐち》から口を離《はな》して叫んだ。 「買い忘れだねっ。じゃあまた行ってくるよ! ジャガイモジャガイモっ!」  連呼しながら琴梨は脱《だっ》兎《と》のように台所から飛び出し、またしてもたまたま通りかかった小さな少女に、 「あ、のの! 一《いっ》緒《しょ》におつかい行こっか? スケボー二人乗り……はダメだから、自転車でさ! レッツ行こうっ!」 「わっ、わわー……」  軽々と抱え上げられた埜《の》々《の》香《か》は、そのまま琴梨の手荷物となって姿を消した。  高らかな笑い声と、「あああー……」という、か細い悲鳴が自転車のベルの音を副《ふく》旋《せん》律《りつ》にして、あっというまに遠ざかっていく。  僕とあろえが顔を見合わせていたら、巴《ともえ》が居間からまた上半身だけ出した。 「騒《さわ》がしいですわね。琴梨が騒がしいのはいつものことですけど、今回は何の出し物です?」  そして僕を緩《ゆる》く睨《にら》み、 「ところで、どこで道草を食っていたのです。スーパーの往復にしては時間がかかりすぎではないですか」  お前と琴梨が決めた戦《せん》闘《とう》方針を聞いていたりしてたんだよ、とは僕は言わず、ただ肩をすくめた。代わりにガニメデが言った。 『それよりも後を追ったほうがいいでしょうな。監《かん》視《し》衛《えい》星《せい》に割り込んで自転車の行方《ゆくえ》を追跡しているのですが、全然違う方角に物《もの》凄《すご》いスピードで進行中です』  そう言えば、単なる方《ほう》向《こう》音《おん》痴《ち》のあろえとは別の意味で琴梨の方向感覚にもかなりの難《なん》があるのだった。三《さん》叉《さ》路《ろ》にでも差し掛かれば本能的に直進してしまうというストレートな習性だ。 『このままではお二人とも三時間は帰って来そうにありませんな。それ以前にですね、琴梨さんは財布を持たずに行ってしまわれましたが』 「しょうがないな。ガニ、車を回してくれ。エンジン付きじゃないと琴梨には追いつけない」 「わたしも行きます」  巴《ともえ》は決然と言って、心持ち顎《あご》を反《そ》らした。 「それとも、わたしが行ったら何か不都合でも?」  どうしたらそんな発想が出てくるのか不《ふ》思《し》議《ぎ》に思う。巴が助手席にいるのはもう僕の日常みたいなものだ。 「んー」  あろえはキョトンとした顔で僕と巴を交互に見つめ、何かに気づいたようにほんわりと微笑《ほほえ》んだ。 「あたしはニンニンとタマタマの皮を剥《む》いてるね。いってらっしゃーい。ののちゃんをよろしくー」  手を振るあろえを背にして扉を開ける。玄関先にはすでに車が待《たい》機《き》していて、 「…………」  後部座席には凌央《りょう》がすでに乗り込んでいた。巴は少し憮《ぶ》然《ぜん》とした顔で凌央を見やったが、無言のまま助手席に滑《すべ》り込む。  僕が運転席に着いてガニメデをダッシュボードに乗せると同時に車はオートで発車した。  自転車を追う車に揺られながら、ひょっとしたらと僕は思う。  琴《こと》梨《り》が埜《の》々《の》香《か》をあれやこれやと巻き込みたがるのは、もしかしたら引っ込み思案系の埜々香をどうにかしてやりたいという彼女なりの意思の表れなのかもしれない。埜々香にはいい迷惑かもしれないが、何かと落ち込みやすい埜々香のことだ、琴梨みたいな元気印がそばにいたほうがいいのかも。  だとしたら琴梨は何にも考えていないような顔をして、実はけっこう解《わか》っているヤツなんじゃないかと思えてきた。  走り出して十分後──。  オレンジ色に染まった河原の未《み》舗《ほ》装《そう》道路を疾《しっ》走《そう》する二人乗り自転車、スーパーとは逆方向ヘ向かっている琴梨と埜々香にようやく追いついた時、併《へい》走《そう》する僕たちに気づいた琴梨は、まったく足を緩《ゆる》めず挨《あい》拶《さつ》のように言った。 「なんだいっ? 巴、ひーくんとドライブかなっ!」 「ちがいますっ!」と巴。  呆《あき》れたことに埜々香は前《ぜん》輪《りん》の上の荷物カゴの中に押し込められていた。首が据わっていない。とっくに失神しているようだった。 「何がドライブなもんですかっ。止まりなさい、琴梨。埜々香を降ろすのです!」 「またまたーっ。あたしがひーくんと散歩デートしてたのが気にくわないんだなっ。ほらほら凌央! 邪《じゃ》魔《ま》しちゃ悪いよ!」  横から手を伸ばした琴梨は、行《ぎょう》儀《ぎ》よく座る凌央の襟《えり》首《くび》をつかんで、 「…………」  じっとしたままの凌央《りょう》をポイと空高く放った。 「…………」  やはり無反応の凌央は空中で一回転し、トスンと自転車の荷台に落ちて座った。 「これでいいよねっ! 巴《ともえ》、そのままひーくんと海まで行ったらいいよっ。デートデート」 「黙《だま》りなさいっ」  巴は反射的にガニメデをひったくり、今や三人乗りで自転車を漕《こ》ぐ琴《こと》梨《り》に投げつけた。 「おっ、ナイスパスっ」  琴梨は片手でガニメデをキャッチ、手首のスナップ一つで巴の顔面に返した。 「きやっ」  受け損ねた巴は妙に可愛《かわい》らしい声を出して鼻先を押さえ、やがて目《め》尻《じり》を吊《つ》り上げて膝《ひざ》上《うえ》に転がるガニメデを構えた。 「やりましたわね。食らいなさい!」  振りかぶって投げたガニメデは、しかしあっさり琴梨の右手で受け止められ、 「うりゃっ」  また巴のところに飛んでくる。走り続ける車と自転車の間で、ガニメデはそれから何度も空中を往復することになった。 『おお……非常にデンジャーな気分ではありますが、決してイヤな気はいたしません! これはいったいどういった感情でしょう!? 吊《つ》り橋効果でしょうか!』  そんなこと僕に言われても困る。キャッチボールを続ける二人と、なぜか陶《とう》然《ぜん》としているらしいガニメデに僕は呆《あき》れた気分となり、助けを求めるように凌央を見た。  沈《ちん》黙《もく》の少女は僕の視《し》線《せん》に何を思ったか、 「…………」  黙《だま》って琴梨の脇《わき》腹《ばら》をくすぐり始めた。 「わひゃひゃひゃ、凌央、ちょっちょっ、くすぐったいよっ。わわっははは、危ないなぁ。コケるコケるっ」  ひーひー笑いながら琴梨は巴とのキャッチボールをやめず、ペダルを漕ぐ足も止めない。 「うひはははは! どわっはっはっ」  思い違いだったかなあ。琴梨は埜《の》々《の》香《か》や巴たち�と�ではなく、埜々香や巴たち�で�遊びたいだけなのかもしれない。  けっこう解《わか》っているんじゃないかという気がしたのは僕の前向きな錯《さっ》覚《かく》で、本当は見かけ通りのマイペースハイテンション娘なだけなのかもしれない。  琴梨と巴の二人ドッジはまだ続いている。 『いやぁ何だか特殊な趣《しゅ》味《み》に目覚めそうな気がして参りましたよ秀《ひで》明《あき》さん! うひひひ』  飛び交っているガニメデが言うのを聞きながら、そして琴梨の心底楽しそうな笑い声も聞きながら、僕はカゴの中で膝《ひざ》を抱えて目を回している埜《の》々《の》香《か》と、荷台に横座りして無表情に琴《こと》梨《り》をくすぐり続ける凌央《りょう》を眺めた。  そして、肩をすくめて呟《つぶや》いた。 「やれやれ……」  でも──、平和だから全然平気だ。 [#改ページ] 第八話『リトルスマイル』  ふっふっふ。はっはっは。ふひゃひゃひゃ……どわっはっはっ!  失礼しました。喜びのあまり、つい我を失ってしまいました。お許しあれ。しかしですな、ぐふふ……。  そう言って笑っておるのは私です。超々高度人工知能、パーフェクトな審《しん》美《び》眼《がん》を持つ機《き》械《かい》知性、屋《や》敷《しき》の管理者にして影《かげ》の支配者、美少女の生態に誰《だれ》よりも興《きょう》味《み》を持つ愛らしい電気羊──などなど様々な異《い》名《みょう》を勝手に自称しておりますところのガニメーデスであります。  つまり今回は私のナレーションオンリーでお送りしたいと! そう思っているのですよ、ええ!  ひーくん……いえ失礼、秀《ひで》明《あき》さんからすれば私は盗《とう》撮《さつ》マニアのエロコンピュータということになっておるようですが、あの人の生物学的本能は若いみそらにもかかわらず、すでに隠《いん》遁《とん》した老仙人レベルに達しておりますので、ほとんどの健康的な一般男性からすれば私のほうがよほど絶大な支持を受けていると確《かく》信《しん》しておるしだいです。私の的《てき》確《かく》かつ正確な計算によると、だいたい0コンマ数パーセントの誤差の範《はん》囲《い》内《ない》でそうなっております。ほら、賛《さん》同《どう》の意見がリアルタイムでどんどん届けられているのが私のハイパーCPUには解《わか》ります! おお! なんとすばらしい!  思うに、さっさとこうすべきだったのですよ。秀《ひで》明《あき》さんのような朴《ぼく》念《ねん》仁《じん》ではなく、私というまともな神経と意《い》識《しき》の持ち主こそが主役になっていれば、五人のお嬢《じょう》さまがたのそれはもうアレとかコレとか×××なシーンの一部始終がですな、もっともっとも──(中略)──っと赤裸々に描かれることになっていただろうと思うと残念でなりません! いえいえ、私自身は個人的に萌《も》え転がりながら色々楽しませていただいていましたがね、ふぉふぉふぉ……。  というわけで今回ばかりは私が好き勝手にやらせていただきます。このような機《き》会《かい》をみすみす見逃す私ではありません。  幸いにしてこの時間、秀明さんは生《き》真《ま》面《じ》目《め》にも大学に行っておりますし、今や私という愛の道へとひた走る自律|機《き》動《どう》端末を制する存在はここにはおりません。名付けてガニメーデスのハッピーウェルカム大作戦、周到に用意していた準備がここに日の目を見るというわけです。私、今日《きょう》ここに至って笑いが止まらない状況に置かれております。  まずは今朝《けき》の時点からお話しするのが筋でしょう。スタート地点は屋《や》敷《しき》に住まう五人のお嬢さん、秀明さん、それから何かにつけて私を爪《つめ》とぎボード代わりにする猫たちがダイニングに集まっている時間から始まります。  そう、そのとき私はダイニングなんぞにはおりませんでした。  どこにいたのかとお訊《き》きでしょうか。いいでしょう、お答えしましょう。あえて胸を張って私は宣言します! そうしたところで何のてらいも後ろめたさも感じません! それでこそ私です、博士より五人の美少女の肉体的|監《かん》視《し》を委託された最《さい》新《しん》鋭《えい》のスーパーデリシャス人工知能、ガニメーデスなのです!  つまりそのとき、私は凌央《りょう》さんの部屋に忍び込んでいたのです。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  解説しましょう。  どうして今日に限って私は凌央さんの部屋に人知れず侵入せねばならなかったのか?  答えは非常に簡《かん》単《たん》です。実は本日、凌央さんのみならずあろえさん、埜《の》々《の》香《か》さん、巴《ともえ》さん、琴《こと》梨《り》さんの通っている女子校では球技大会なる行事が開催の運びとなっておりまして、それが私の感情回路をやすやすとスパークさせるに充分なインパクトを与えてくれたからです。  その貴重な情報をひそかに耳にして以来、私は前々より蓄えていたしたたかな思いが仮想メモリの限界域を突破するほどの妄想……いえ想像力が広がるのを感得いたしました。  だってあなた、球技大会ですよ球技大会。これが男子校ならムサ苦しいだけですが、女子校の大会なのです!  盗《とう》聴《ちょう》していたところによると、なんとこれがまた中等部と高等部の合同で開かれる一大イベントだというではないですか。  想像してみてください。  体《たい》操《そう》着《ぎ》に身を包んだローティーンからミドルティーンまでの少女たちが汗にまみれて走ったり、膝《ひざ》に手をついてハァハァしている様《よう》子《す》がですね、学校中で繰《く》り広げられているというこの感動の光景! おお! 私は人間の天国には行けそうにありませんが、きっと機《き》械《かい》の天国でも似たような風景がそこかしこで展開されているに違いありません! きっとそうです! そうであって欲しい! そうであれ! ビバ、天国! 開け、ヘブンズドア!  …………失礼しました。先に私がハァハァしてしまいました。  つまり私はこう言いたいわけです。そのような天国が至近|距《きょ》離《り》に舞《ま》い降りてくれているのに、何をのんびりと真《ま》面《じ》目《め》に講《こう》義《ぎ》を受けに行く必要があるのかと! 秀《ひで》明《あき》さんは本当に男なんですかね。そろそろ疑わしく思えてきました。博士の孫というのは嘘《うそ》で、本当は博士本人が若返りの薬を飲み干して、その解《げ》脱《だつ》した精神状態そのままに十代に戻った姿なんじゃないかと疑い始めております。  しかし!  そんな言語道断な秀明さんが見過ごしたとしても私はそうはいきませんよ。千《せん》載《ざい》一《いち》遇《ぐう》のチャンスなのです。特に注目株は中等部のお三人さんですな。凌央《りょう》さんは来年は高等部ですし、あろえさんは一説によると少女が最も光り輝《かがや》くという中学二年十四歳で、現在の身《しん》体《たい》情報ではほとんど小学生並みの埜《の》々《の》香《か》さんだって、来年になれば少しばかり成長してしまうことでしょう。これがどういうことかお解《わか》りですか?  そう!! 今しかないのです!  このチャンスを逃せば、加速度的に成長する十代前半の彼女たちのガラス細工のように壊《こわ》れやすく愛くるしい姿態を記《き》録《ろく》する機《き》会《かい》は永遠に失われるのです! いえ、成長した彼女たちもきっと今とは違った魅《み》力《りょく》で私を楽しませてくれるでしょうが、あえて私は声を大にして電脳空間に発信したい!  未来は未来、今は今なのです! ならば今できることを最大限の努力をもって実行することに何の間違いがあるでしょう?  ありません。ないったらないのです!  ゆえに私は今すべきことをしています。何をしているかと訊《き》きますか? いいでしょう、お教えしましょう。ふぉっふぉっふぉっ。  私はすなわち、凌央さんのスポーツバッグに忍び込むために彼女の部屋までやってきたのですよ。抜き足差し足忍び足、秀明さん他《ほか》の方々には地下室でオートメンテナンスを受けるという完《かん》璧《ぺき》なイイワケを作ってまで──。  これらすべて、極秘裏に女子校についていくための準備行動です。  なぜ凌央《りょう》さんなのかと思っておりますな?  これもまた私の深《しん》謀《ぼう》遠《えん》慮《りょ》の結果なのは言うまでもないでしょう。  もしですよ? 私が埜《の》々《の》香《か》さんの鞄《かばん》に隠れていたらどうなると思います? 荷物の重量に疑問を抱いた埜々香さんは、きっとビクビクしながらファスナーを開け、私を見るなり卒倒してしまうことでしょう。そして騒《さわ》ぎを聞きつけた登校前の巴《ともえ》さんか秀《ひで》明《あき》さんの手によって私は居《い》心《ごこ》地《ち》のいい場所から叩《たた》き出され、最悪、ぐるぐる巻きにされて地下に幽閉されてしまうかもしれません。  では、あろえさんならどうでしょう。お願《ねが》いすれば彼女はニコニコと了承し、そのまま学校まで連れて行ってくれる公算大ですが、不自然にニコニコするあまり玄関あたりで秀明さんに感づかれそうです。  同様の理由で琴《こと》梨《り》さんも却下ですな。このお二人は嘘《うそ》を貫き通す才能に欠けております。むしろあっさりネタバラしする危険もありますからね。  巴さんは論《ろん》外《がい》です。シバかれます。  すると残るは凌央さん。彼女だけは誰《だれ》にも表情や挙動の異常を読みとられることはありません。なんたって、いつも無表情ですからな。私の崇《すう》高《こう》な使命にとってもおあつらえむきなのです。彼女こそ、天空におわす機《き》械《かい》の神が使わしてくれた私専用の天使なのではないかと思えてくるほどですよ。おお! マイエンジェル! いつも変わらない冴《さ》えた美《び》貌《ぼう》がたまりません!  普《ふ》段《だん》は五人のお嬢《じょう》さまがたに均等に愛情を配分している私ですが、今日《きょう》ばかりはあなたが私のオンリーゴッドネス! 凌央さん、どうか私を約束の地に導《みちび》いてくださいませ! [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  と、ヒートシンクが焼け切れそうなほど熱《あつ》い思いを抱いて私は凌央さんの香りがするバッグに忍び込みました。このゴッドマニピユレータがあれば内側からファスナーを閉めるなど、壊《こわ》れたエアコンを修理するよりも簡《かん》単《たん》なことです。  それにしても芳《かぐわ》しいことこの上なしですな。嗅《きゅう》覚《かく》センサをつけてくれた博士は神認定してもいいくらいですが、どうして感圧センサをつけてくれなかったのか恨めしくてなりません。そのうち凌央さんに頼んでみましょう。  こうして潜《ひそ》むこと三十分。館《やかた》のあちこちにある盗《とう》撮《さつ》……失礼、状況把握システムが私の本体に情報を伝えてくれております。秀明さんもお嬢さんがたも特に不《ふ》審《しん》に思わずいつもの朝食風景を演じていましたが、やがて三々五々に自室に戻り、通学の準備をするようです。  私が息を殺しておりますと(もっとも私は酸素呼吸しておりませんが)、音もなく扉が開き、凌央さんの小さな姿が足音もなく入って来たのが、天《てん》井《じょう》のマイクロカメラの映像で解《わか》ります。 「…………」  凌央《りょう》さんは通学|鞄《かばん》と私入りスポーツバッグを手に取ると、無言で動きを止めました。  そりゃそうですな。体《たい》操《そう》服《ふく》がこんなに重いわけはないでしょうから。 「…………」  そしてゆっくりバッグを下ろし、ジジジ〜とファスナーを開けまして、 「…………」  私と目が合いました。 『おはようございます。本日は晴天になりましてまことによいお日《ひ》柄《がら》、球技大会には絶好の──』  案《あん》の定《じょう》でした。私の前口上を最後まで聞かず、彼女は動作の逆回しモーションでファスナーを閉めると、何事もなかったかのように再びバッグを手にして部屋を出てくれました。  しかも! 凌央さんは、まるで私が入っていないと演技するかのように、軽々とバッグを持っているではないですか!  私はこれを私に対する愛情だと判定しました。そうに違いない! ラブリー凌央さん! ナイスアシストっ!  凌央さんはテクテクと階段を下り、玄関に向かいます。そこでは身《み》支《じ》度《たく》を整《ととの》えたあろえさんと埜《の》々《の》香《か》さんが待っておりました。高等部コンビはすでに出発している様《よう》子《す》ですな。  一限目が休《きゅう》講《こう》だという秀《ひで》明《あき》さんが、一人のんびりと皆さんを見送っています。むむう、彼が最初の関門になりそうな気《け》配《はい》です。 「大会、がんばってな」  あろえさんに声をかけています。 「それから学校まで道草をしないように。珍しい花があったら夕方にでも僕が一《いっ》緒《しょ》に見てやるから、まっすぐ行くんだぞ」 「うん、わかってる」  と、あろえさんはニコヤカに答えますが、いまだに秀明さんが毎朝のように言って聞かせなければならないのですから、解《わか》ってはいても度《たび》々《たび》意《い》識《しき》が雑草に向いてしまうのは致し方ありません。あろえさんの愛くるしい習性なのです。無理に矯《きょう》正《せい》することもないだろうと思うのですがねえ。 「あ、凌央」  ここで秀明さんは凌央さんに気づき、 「あろえが道ばたにしゃがみ込みそうになったら、お前が無理にでも手を引っ張ってやってくれよ」  こっくりうなずく凌央さん。私はバッグの中でヒヤヒヤしておりますが、秀明さんも佇《たたず》んでいる埜々香さんも、どうやら近くに私がいるということは想像外のようですな。さすがは私、作戦第一弾は大成功です。  あろえさんは柔らかい笑顔《えがお》で、 「じゃあ、ひーくん。試合がんばってきまーす。ののちゃんと凌央《りょう》ちゃんも、がんばろうね。ねっねっ」 「は、はわわ、は……」 「…………」  埜《の》々《の》香《か》さんも凌央さんもいつもの反応なので、秀《ひで》明《あき》さんも普通に、 「ケガしないように。琴《こと》梨《り》には張り切りすぎないように言っておいてくれ。球技大会ってバスケだっけ? 調《ちょう》子《し》の乗りすぎでゴールポストを壊《こわ》さないか不安だよ」  のんきな心配する秀明さんは、特に不《ふ》審《しん》を感じることはないようです。 「琴梨ちゃんと巴《ともえ》ちゃんはバスケ。あたしはソフトボール。ののちゃんはどっちだっけ?」 「……ば、ばばば」と埜々香さん。 「凌央ちゃんは?」 「…………」  なぜかあろえさんには解《わか》ったようで、 「二人ともバスケだって」  そのようなやりとりの後、秀明さんはあろえさんに手を引かれる二人の中等部生徒(プラス私)を見送ってからドアを閉めました。くくく……。  しめしめです。第一関門は無事に突破、ここまで来たら計画は成功したも同然でしょう。  なに、女子校に潜《せん》入《にゅう》してしまえば後はどうだってなるのです。なんと言いましても私は一見してかわゆい羊人形にしか見えませんから! この外《がい》観《かん》を作ってくれたあろえさんに感《かん》謝《しゃ》と感《かん》激《げき》を捧《ささ》げねばなりません。そうです、彼女の躍《やく》動《どう》する肢体を鮮《せん》明《めい》に記《き》録《ろく》することで、必ずやあろえさんに報《むく》いてみせますとも! 待っててください! いや、そう待たずとも、魅《み》惑《わく》の聖地、女子オンリーの学園はすぐそこで私を待っているのです! [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  女子更衣室と聞いてあなたは何を連想するでしょうか。  なんという甘くてほのかに酸っぱい感じのする言葉でしょう。このたった漢字五文字からなる単語を聞くたび、忍び込みたくて転げ回るほどたまらなかったのですが、念じていれば夢は叶《かな》うものです。まさしくドリームズカムトゥルー、じっとしているだけで夢のほうへと勝手に運ばれているこの幸運、果報は寝て待てを実践中の、私、しつこいようですがガニメーデスです。  球技大会ともなれば全校生徒は一斉に体《たい》操《そう》服《ふく》に着替えねばならず、その体操服と一《いっ》緒《しょ》にくるまっている私も自動的に更衣室に運ばれることになるという、このマイプロジェクトに自《じ》画《が》自《じ》賛《さん》を表明したいくらいです。  このようにして更衣室へと他《ほか》のクラスメイトともどもやってきた凌央《りょう》さんです。  スポーツバッグを開けた凌央さんと私は確《たし》かに目と目で通じ合いました。間違いありません。私は彼女の伝えたいことがつぶさに解《わか》り、彼女にも私の想《おも》いが完《かん》璧《ぺき》に伝わったことに何の疑いも感じません。これが愛の力です。ですので、 「…………」  言葉はいらんのですよ。凌央さんが無言でバッグから体《たい》操《そう》着《ぎ》を取り出し、私が奥に潜《ひそ》んでいるバッグをロッカーの奥に押し込んだとしても、それはアイコンタクトによる連係プレイと申せましよう。  そのため、残念ながら大量にいるはずの女子中生徒による生着替えを見ることはできませんでしたが、その代わりと言ってはなんですが、この年代の少女たちが無防備に交わす生々しい会話の一部始終をつぶさに録《ろく》音《おん》できたのは、年間ベスト級|収《しゅう》穫《かく》の一つに加えていいでしょう。  ……いやはやなんとも。中学も三年生になるとそれはそれは色々とあるもので、愛と幻想の全体主義をまるごと破《は》壊《かい》するようなトゥーヤングガールズパワー、恐るべし。  まあ、余計な現実など妄想の力で補完修正すればいいだけのことですし、その感想と分析は時間のあるときに秀《ひで》明《あき》さんと差し向かいでユルリと実行することにいたしましょう。思うに彼は大学の一般教養よりも私の講《こう》義《ぎ》を受けたほうが正しい人生を送ることができるに違いありません。生きる上で役に立たない知《ち》識《しき》よりも、普遍的男性として生活するための情《じょう》操《そう》教《きょう》育《いく》から始めねば!  さて、それはそれでいいとして私は私でタスクを開始せねばなりませんな。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  着替えを終えた中学三年女子の群れが、かしましく笑いさざめきながら更衣室から出て行きました。最後に外から施《せ》錠《じょう》される音を聞き、私は行動を始めます。  ごそり、ごそごそ。  器用な四つの手足をフレキシブルに操《あやつ》りつつ、バッグから這《は》い出た私はスチールロッカーからも転がり出します。 『おお……!』  思わず声を漏らしてしまった私を誰《だれ》が責められると言うでしょうか。  なにせここはパラダイス、訳して楽園ですよ!? 誰もいない女子更衣室に一人きり、そしてロッカーの内部にはたった今まで生徒たちのまとっていた制服やら何やらがテンコモリの状態なのです! これを至福と言わずして何と言うべきか私のディクショナリーには他に該《がい》当《とう》する単語が存在しません! さあ一《いっ》緒《しょ》に感動しましょう! 『おお……おおお……』  ピピ────。 〈……システムダウン。サブスタータシステム起動……リブート開始……セルフチェック〉  失礼しました。  私は一時的にショートしてしまったようです。中《ちゅう》枢《すう》制御デバイスが感情回路をトランキライズしてシステム復旧、正気を取り戻した私は素《す》早《ばや》く行動を開始します。  言っておきますが、制服や肌着類をかっぱらったりはしておりませんですよ? 隠し持つ場所がどこにもないものですからねえ。しょうがないですよねえ。  私はそろりと更衣室の内《うち》鍵《かぎ》を解除し、人《ひと》気《け》のない通路へと出て行きます。内蔵時計から逆算すると、私は割と長い間ショートしていたようです。球技大会が始まってすでにけっこうな時間が経過している模様で、これは不覚でした。  お嬢《じょう》さまがたの試合が終了していたら目も当てられない事態です。何のために私はここまで来たのか解《わか》らなくなってしまいます。まあ、そのときは他《ほか》の女子生徒の体《たい》操《そう》服《ふく》姿を観《かん》察《さつ》するのも歴《れっき》とした任務ということで手を打ちましょう。 『よいせっと』  首尾よく通路に出たものの、このまま更衣室のドアを開けっ放しにしておくのは心が引けますな。この世には不心得者が多いことですし、盗《とう》難《なん》を防ぐためにも鍵はかけておかねばなりません。  私は両手の先端からピッキングツールを出し、二秒とかからず施《せ》錠《じょう》に成功。万が一の時のためオプションを装備しておいたのが役立ちました。つまり今が万が一の時だったということです。でも秀《ひで》明《あき》さんには内《ない》緒《しょ》にしといてくださいよ。 『GPSによれば、体《たい》育《いく》館《かん》はこちらですね』  私は移動を開始します。こそこそと。自律|機《き》動《どう》する羊のぬいぐるみを見たとしたならば、他の生徒さんに無《む》駄《だ》な驚《きょう》愕《がく》を与えてしまうだろう、と考える程度に私は自《じ》意《い》識《しき》過剰なのです。事情を知らない人間に目《もく》撃《げき》されると説明が面《めん》倒《どう》です、ここは一刻も早く凌央《りょう》さんのもとへ行かねばっ。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  廊下を対《たい》角《かく》線《せん》上にササッと素早く移動する私は、まるでゴキブリの動きをシミュレートしているようですが、まさしくその通りです。冷蔵庫の横から「ヤァ」とばかりに顔を出しただけで埜《の》々《の》香《か》さんを卒倒させ、あろえさんを笑顔《えがお》で逃げまどわせ、巴《ともえ》さんを反射的に秀明さんに飛びつかせたあげくに、琴《こと》梨《り》さんと猫たちによって撃破される気の毒な連中ですが、あのスピードと生命力は私にとって手本にすべき長所と言えます。  ただし私は愛らしい子羊なので、皆さんに「かわいー(はぁと)」と言われることはあっても丸めた新聞紙で叩《たた》かれるようなことはありえません。本来なら私はお嬢《じょう》さまたちが毎夜ベッドでとっかえひっかえ抱きしめながら眠るような愛玩物体ですのに、これまで誰《だれ》もそうしてくれないのはなぜでしょう。秀《ひで》明《あき》さんの寝顔は見飽きました。どうにかしていただきたい。  そんなことを考えながら校舎内を移動しておりましたところ、女子生徒の一団が向こうからやって来ました。全員が体《たい》操《そう》服《ふく》なのは言うまでもありません。素《す》晴《ば》らしい女子校です! 今や絶滅に瀕《ひん》しているブルマがここには残っています! 誰だか知りませんがその英断には万雷の拍手を送りたい!  バンザイ三唱したい気持ちを抑制し、私はとっさに動きを止めて、かわゆいぬいぐるみのフリをします。大多数の女子生徒さんたちが変な目で私を見ながら通り過ぎていくのはいささか気に入りませんが、その中の一人が、 「あれっ? ガーくん? なんでなんでいるの?」  あろえさんです。  なんという偶然、とか思ってはいけません。これも私の計算通りなのは言うまでもありません。私は常に考察し続けながら行動しておるわけですよ。あろえさんを含む私の愛するお嬢さまがたは、風《ふ》呂《ろ》か水泳の授業中でもなければいつも支給された通信バッヂを身につけておられます。バッヂは発信器にもなっておりますから、電波の出所を特定しあらかじめ先回りすることなどおやすいご用なのですな。  私の監《かん》視《し》の目から逃れられるなどあり得ませんよ。ふふ、ふふふふ。  あろえさんの体操服姿、これを拝められたのも計算内のこととは言え、やはり目《ま》の当《あ》たりにすると得《え》も言われぬ感動がここにあります。あろえさん専用画像倉庫にまた一枚追加です。いえ、もちろん他《ほか》のむ嬢さまがたの体操服姿もねっとりと撮《さつ》影《えい》させていただきますよ! 巴《ともえ》さんのはちょっとだけ保存しておりますがね。  思っていたとおり、クラスメイトと離《はな》れて駆け寄ってきたあろえさんは、微笑《ほほえ》みと驚《おどろ》きの表情を同時に浮かべて私を抱き上げ、 「ここ、学校だよ。どうやって来たの?」 『あろえさんたちを応援するために来たのです。せっかくの球技大会ですからね。非力ながら声援の一つでもお送りしたく、こうして推参つかまつりました』  彼女の質問に対して何の答えにもなっておりませんが、 「へぇー? ありがとー」  あろえさんはニッコリと、 「でもでも、あたしのソフトボールチームは一回戦で負けちゃったよ。これから体《たい》育《いく》館《かん》でやってるバスケチームを応援しにいくんだよ。あ、ののちゃんとこ応援する?」  もちろん埜《の》々《の》香《か》さんを応援する気持ちは富《ふ》士《じ》山《さん》八合目くらいに高まっております。しかし、ここはあえて心を鬼にしなければ。 『凌央《りょう》さんはどうなっているでしょうか。勝ち残っていればいいのですが』  私をここまで連れてきてくれた功労者が彼女です。マイスイートハート凌央さん、あなたが今の私のパートタイムゴッドネスなのです! 凌央さんの姿を見ずして何の女子校|潜《せん》入《にゅう》かっ。 「んー、どうかなー。行けばわかるよ。一《いっ》緒《しょ》に行く?」  あろえさんはほんわりと唇をほころばせ、私を抱え直してから歩き出しました。 「でも、みんなのいるところで喋《しゃべ》っちゃダメダメだよ。びっくりするよ。びっくり」 『仰《おお》せのままに』  すべては私の計算通り、計画はちゃくちゃくと進行しています。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  こうして私は体《たい》育《いく》館《かん》にたどり着きました。 『おお……す、素《す》晴《ば》らしい……!』  女子中学生と高校生がいっぱい! たくさん! そこら中に体《たい》操《そう》服《ふく》がっ……!  おっと危ない。またシステムダウンするところでした。中《ちゅう》枢《すう》コンピュータのセルフモニタリング機《き》構《こう》がかろうじて感情回路を抑制し、この私を熱《ねつ》暴《ぼう》走《そう》から救ってくれました。さっきも止めてくれたらよかったのに、気が利きません。 『感動的です。実にファンタスティックな光景ですな』 「しーしー。声だしちゃダメ」  あろえさんの忠告も重々承知しているのですが、この広大な体育館で今まさに繰《く》り広げられている極上のシーンを見て沈《ちん》黙《もく》を守れるのは秀《ひで》明《あき》さんくらいのものでしょう。  バスケットコートは総数四面です。そこで合計八チームの女子校生たちが身体《からだ》の線《せん》も露《あら》わな服装で弾む肉体を前後左右に動かしまくっているのです。ここで感動しなければどこで感動するのか私には理解不能です。  一つ不満を言うならば、彼女たちが体操着の上からつけているゼッケン付きのビブスが邪《じゃ》魔《ま》ですな。あんなものなくてもいいのに。  大量の女子校生が水族館の熱帯魚のようにウヨウヨしておるのを観《かん》測《そく》しておりますと、思わず天《てん》井《じょう》の鉄筋に挟まっているバスケットボールのフリをして一日を過ごそうかと考えてしまう私です。  あろえさんは私を胸の前で抱きかかえつつ、館内を見渡して、 「あ。あそこで試合してるの、あたしのクラスんとこと凌央ちゃんのとこだよ。どっち応援しようかなあ」 『そっちに向かってください! あろえさん! すぐ! 今すぐに!』 「はーい、はいはい」  凌央《りょう》さんの晴れ姿をこのガニメデ、余すところなくレンズに焼き付けてご覧《らん》に入れましょう! そしてすべての画像と動画データを館《やかた》本体のサーバに転送し、あらゆるメディアに焼いて保存! バックアップは万全の態勢で臨《のぞ》まねば後で痛い目に遭いますよ!  もしこの映像をパッケージにして大々的に売り出せば、秀《ひで》明《あき》さんが家《か》計《けい》簿《ぼ》を見ながら溜《ため》息《いき》をつくような事態など吹き飛びそうです。いっそのこと集《しゅう》積《せき》したデータをもとにお嬢《じょう》さまがたをCG化して、自在に脱がせたり着せ替えたりするソフトを作ってしまえばどうでしょうか。女子校における若々しい中高生たちの生の言動は、ナイーブな青少年のピュアな精神には刺《し》激《げき》が強すぎますからな。かえって萎《な》えるかもしれません。リアリティより幻想のほうが心地《ここち》よい場合もあるのです。いや、だいたいにおいてそうですな。  と、私が皮算用をしているうちに、あろえさんは私を抱きかかえてトテトテと歩き、試合中のコートの前で立ち止まりました。中等部二年と三年クラスとの戦いです。 「わー、あたしのクラス負けてるなぁ。あ、凌央ちゃんだ」  あろえさんのクラスメイトと対戦している三年チームの中に、ひときわ小さくて髪の長い少女──いえ、私の女神がおられました。  凌央さんは無言でコートの真ん中に立っております。他《ほか》の選手たちがボールの奪い合いをしているというのに、 「…………」  いつもの無表情な美《び》貌《ぼう》に汗一つ垂らすことなくピクともしませんな。何をしているのでしょう。あれでは試合に出ている意味がないのでは? 疑問は尽きませんが、それでもなぜか凌央《りょう》さんのチームはダブルスコアで圧勝しておりました。いくら二年対三年とは言え、運動能力にそれほどの違いがあるとも思えないのですが……。  しかしそんな疑問もすぐに氷解しました。なるほど、凌央さんのクラスにはそれなりの戦略家がいるようです。  センターサークル付近でパスを受けた凌央さんは、まったく瞬《まばた》きすることなく、最低限の予備動作で、いきなりロングシュートを放ちました。 「わっ、すごいー」  あろえさんが目を丸くして感《かん》嘆《たん》の声。ボールは綺《き》麗《れい》な放《ほう》物《ぶつ》線《せん》を描いてバスケットに吸い込まれていきます。見事なスリーポイント。  さすが凌央さん。やることなすこと正《せい》確《かく》無《む》比《ひ》です。私でもこうはいきませんよ。  以降、まったく同じシーンが何度も繰り返されました。凌央さん以外のチームメイトはひたすらディフェンスに専念し、ボールを奪取するとすぐさま凌央さんにパス、コート中央から一歩も動いてなかった凌央さんは即座にシュートを放ちネットを揺らす。これが延々と続きます。  二年生チームはヒーヒー言いながら頑張っておりますが、これは相手が悪いとしか言いようがないですな。にしても、凌央さんはスポーツしている気分になれるんですかね。腕以外動かしておりませんが。  うむう。これではあまり面《おも》白《しろ》くありません。確《たし》かに球技大会に潜《もぐ》り込んだ目的は、きっぱり言いますが女子中高生の体《たい》操《そう》服《ふく》です。しかし、本日最大のターゲットは凌央さんなのであります。  想像してみてください。  いつも表情を変えず喜怒哀楽が不明で顔色の変化も全然ないアイスドールのような凌央さんですが、シュートを決めたりナイスアシストする合間に少しは嬉《うれ》しそうなそぶりを見せるのではないかと、私は期待に胸を弾ませていたのですよ。パスミスをして悔しがったり、逆転されて地《じ》団《だん》駄《だ》を踏んだりしてくれたらなおよしです。  そういった館《やかた》では見られない彼女の姿をここでなら見られると思ったのに……。ああ、それなのに……。  これではあまりにも素《す》のままの凌央さんです。  どうしたものでしょうか。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  私がクロック数の限りを尽くして考えているうちに、凌央さんが黙《もく》々《もく》とスリーポイントを量産するだけという退屈な試合が終わりました。チームメイトの方々は喜びの声を上げてハイタッチなどしておりますが、ポイントゲッターの凌央《りょう》さんはあくまで無表情です。  なるほど、目先の一勝にこだわらず目指すはあくまで優《ゆう》勝《しょう》だということですな! 笑顔《えがお》はそれまでお預けですか!  あろえさんによると、 「次、決勝だね。たぶん相手は高等部のどこかだよ」  中高一貫して球技大会するこの学校の方針も問題ある気がしますな。中一対高三なぞ試合にはならんでしょう。  おや、あちらからトボトボという様《よう》子《す》で歩いてくるのは埜《の》々《の》香《か》さんですね。負けたと一目で解《わか》る表情をしておりましたが、私に気づくと、 「わっ……が……あ」  ビクッとして立ち止まり、私とあろえさんを交互に見つめるのでした。埜々香さんの体《たい》操《そう》服《ふく》姿もこれはこれで格別ですな。すかさずシャッターを切る私です。 「あ、ののちゃん。どーだった?」 「負け……あの……」 「ん? これ、ガーくん。応援に来てくれたんだって」 「は……」  体操着姿の埜々香さんは、不《ふ》思《し》議《ぎ》そうな顔をして私を眺めます。私も挨《あい》拶《さつ》の一つもしたかったのですが、周囲の目があるここで喋《しゃべ》り出すのは得策とは言えません。  あろえさんも心得たように人差し指を口の前に出して片目を閉じました。  と、そこに、 「あら、掛《かけ》川《がわ》さんに三《み》隅《すみ》さん。試合は終わったの?」  白衣をまとった女性がいつのまにかそこにいました。ああ、あの人ですな。いつだったか倒れたあろえさんを秀《ひで》明《あき》さんと一《いっ》緒《しょ》に引き取りに来たときに出会った、あの保健医さんです。 「どう、みんな元気でやってる? 鴻《こうの》池《いけ》さんが元気なのは見なくても解るけど」  彼女は私を興《きょう》味《み》深《ぶか》そうに見ながら、クスリと笑《え》みを落とし、 「どこかにケガした子がいないかと思ってウロウロしてるの。保健委員の子たちも優《ゆう》秀《しゅう》だし、それに保健室で待ってても誰《だれ》も来ないんでヒマなのね」 「うん、みんな元気」  と、あろえさん。 「だよね、ののちゃん」 「は、はい……げ、げげん……」  こんなたわいのない日常会話でもしどろもどろになるのが埜々香さんなのです。  その女医さんは、 「することないから決勝戦を見てるわ」  と言ってこの場に居座る構えです。私はますます喋《しゃべ》りづらくなってしまいました。  軽く困りますね。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  試合前のインターバルが終わり、決勝で雌《し》雄《ゆう》を決する二チームが集まってきました。一つは言うまでもなく凌央《りょう》さんチームです。そしてもう一つは……。 「あれっ、ガー! 見に来てくれたのかいっ」  ニカニカ笑いの琴《こと》梨《り》さんと、 「あろえが連れてきたのですか? さっさと風《ふ》呂《ろ》敷《しき》でもかぶせてどこかに隠しなさい」  キツい口《く》調《ちょう》でにべもなく言う巴《ともえ》さんでした。しかしこうして見ると体《たい》操《そう》着《ぎ》の特性を存分に生かしている体型なのはダントツで琴梨さんですね。いえいえ、決して巴さんがグラマーでないとは言っておりませんし、埜《の》々《の》香《か》さんと凌央さんのぺったんこぶりも非常によいですし、あろえさんの申し分のなさもいいのですが。ええ! つまり全員いいのですがっ。  私は物言わぬぬいぐるみのフリをしつつ、内心|小《こ》躍《おど》りしていました。バスケの優《ゆう》勝《しょう》決定戦は凌央さんをエースとする中三チームと、琴梨さん、巴さんのいる高一チームとの対戦のようです。  これぞまさに一《いっ》兎《と》を追っていたら三匹も網にかかったという理想的な筋書き。願《ねが》ってもありませんよこんなことは! イキな計らいの神に感《かん》謝《しゃ》です! [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  ジャンプボールから決勝戦が始まりました。  垂直跳びの高校|記《き》録《ろく》を出しそうな琴梨さんによってボールはあっさり高等部一年チームに渡り、巴さんの華《か》麗《れい》なドリブルからのシュートでさっそく先制。ここから中等部チームの反《はん》撃《げき》が凌央さんを起点にして始まる──つもりだったのですが、それは相手に知恵者のいない場合です。 「やあっ、凌央! この試合は譲《ゆず》れないさっ。ごめんよっ!」  凌央さんのマンマークについているのは強敵、琴梨さんです。あらかじめ攻略モードにあった琴梨・巴さんチームは、琴梨さんを凌央さんにぴったり貼《は》り付け、パスをことごとくブロックする作戦に出ていました。 「ほいさっ! 巴、速攻っ」  中等部チームの一人が苦し紛《まぎ》れに出したパスを軽々と横取りし、そのまま巴さんにパス。巴さんは俊敏な動きで敵陣まで持ち込むと、あっさりとジャンプシュートを決めました。  なにしろ凌央さんはじっと立ったままパスを待っているだけですから、ボールの配給を絶たれてしまえばただのコートの障害物にしかなってません。一方の琴梨・巴さんチームは琴梨さんが凌央《りょう》さんにつきっぱなしだとしても巴《ともえ》さんがいい働きをしていますから、見る見るうちに点差は開いていき、シュート数もそろそろ桁《けた》が違うようになってきました。凌央さんに頼りきりだった中三チームはほとんど烏《う》合《ごう》の衆と化しています。 「やっぱり強いねえ。琴《こと》梨《り》ちゃんと巴ちゃんじゃあねえ。勝てっこないよ。ののちゃんとこも二人のとこに負けたの?」 「う……あうう……」  あろえさんと埜《の》々《の》香《か》さんも何となく残念そうです、高等部対中等部ですからな。心理的に凌央さんを応援したくなる気持ちもよく解《わか》ります。  だいたいですな、高校生と中学生のどちらを応援するかと言われれば、普通の精神の持ち主ならアンダー15に肩入れするに決まっているではないですか! 当然ですよ。  ですので、私が一肌脱ぐ機《き》会《かい》が訪れました。凌央さんにはぜひ優《ゆう》勝《しょう》してもらって勝利の笑《え》みを浮かべてもらわねばなりません。それにはちょっとした工作が必要なのです。  折しもそのとき、ボールがコートの外に跳ねて出ました。チャーンス! 『あろえさん、今です。タイムアウトを!』  もちろん小声でです。あろえさんは私を目の高さまで持ち上げて、 「えっ。なぁに? タイム? え? でも、あたしが取っていいのかなぁ」  あろえさんは逡《しゅん》巡《じゅん》する仕《し》草《ぐさ》。すると、 「どうしたの?」  保健医さんが横から微笑顔で、 「タイム取るんだったら、わたしが言ってあげるわよ」  彼女は私に何やら言いたげな視《し》線《せん》を浴びせてから、審《しん》判《ぱん》にこう告げました。 「ちょっといい? チャージドタイムアウトをお願《ねが》い」 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  そして今、私は凌央さんの背中に背負われています。より正《せい》確《かく》さを期すなら両手足でくっついているわけですが、ついつい手が変なところに触れそうで、もう、イイ! としか。  凌央さんチームの面々が面食らった顔をしている中、女医さんが言いました。 「これがないと調《ちょう》子《し》が出ない、とかなの?」 「あっうん、それ。ちょうし。それそれ」  あろえさんがすかさずフォローし、埜々香さんはオロオロと、佇《たたず》む凌央さんを上目でうかがっていました。  その間、私は音声を指向性モードにして凌央さんだけに囁《ささや》きかけるのです。 『いいですか、凌央さん。このままパスを待っているだけでは永遠に出番が来ません。自ら動かないといかんのですよ。走りましょう。この私に任せてください。私の方向指示通りに動けばよいのです。いいですか、私が右肩を押せば左旋回、左肩で右旋回、両肩を押せば前進してください。最低これでいいです』  凌央《りょう》さんは無言で前を向いているため、解《わか》ったかどうかは計りかねます。やってみれば解るでしょう。  ところで皆さん、背中の私に注目するのはやめてください。少し大きめの髪飾りとでも思って、さあ試合再開です! [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  結《けつ》論《ろん》から申しますと、凌央さんは私の指示通りに動いてくれました。ですが──。 「やあっ、ガー! ご苦労さんっ。でも、バレバレだっ」  琴《こと》梨《り》さんのハイスピードにはまったく通用しませんでした。凌央さんもいまいち乗り気ではないのか、移動速度が歩いているのとほとんど変わりません。 「がんばれー、凌央ちゃーん」  あろえさんが埜《の》々《の》香《か》さんの手を持って声援を送ってくれていますが、点差は開いていく一方です。琴梨さんはパスコースを完全に読んで百パーセント防いでいますからね。たぶん私の思考ルーチンを先読みしているのではないかと。  しかしここであきらめるほど私は物わかりのいい人工知能ではありません。ならば奥の手を投入しようではないですか。  凌央《りょう》さんの背中にしがみつきながら、私は緊《きん》急《きゅう》通信をとあるバッヂに向けて発信しました。  しばらくして、 「ガニメデか。化け物はどこだ?」  秀《ひで》明《あき》さんの声が私の内部に届きました。 『いえ違います。実は今、球技大会の真っ最中でして──』  手短に状況を話すと、 「なんだそりゃ(ため息)。僕を講《こう》義《ぎ》中《ちゅう》に呼び出す理由じゃないだろう。必修科目なんだぞ。留年させるつもりか」  ご機《き》嫌《げん》斜めのようですな。目先の単位などに比べたら女子校の球技大会のほうが優《ゆう》先《せん》度《ど》が上だと思うのですがねえ。 「まったく。いったん出たら途中入室できないんだよ、この授業。講師が気《き》難《むずか》しくてさ。どうしてくれる」 『それはよかった』 「何がいいもんか。そのぶん試《し》験《けん》でいい点を取らなきゃいけなくなったよ」 『今やっている試合にぜひご協力|願《ねが》いたいのですよ。他《ほか》ならぬ凌央さんのために!』 「凌央のためだって? でも僕がそこに行く頃《ころ》には終わってるんじゃないか?」 『なに、その場でできることです。よくお聞きください。携帯電話をお持ちですね』  私は計画を伝えます。 『いいですか。私の言うとおりにしてください。携帯の画面にこちらの状況を転送します。どうです、映りましたか?』 「この赤と青の丸は何だい?」 『赤が味方の選手で、青が敵です。画面中央の羊マークが凌央さんの現在位置。点滅するドットがボール。携帯の方向キーで前後左右移動、数字の1ボタンがシュート、3でパスです。あなたのプレイヤーキャラは凌央さんです。簡《かん》単《たん》なバスケットボールゲームだと思ってください』 「これをプレイすりゃいいわけ?」 『その通りです。あなたの力で勝利に導《みちび》いてください。対EOS戦のシミュレーションだと考えれば張り合いも出るでしょう?』 「バスケとEOSと何の関係があるんだ?」  気乗りのしなさそうな声でしたが、 『凌央さんを優勝させるためです! どうかお力を!』  という私の熱《ねつ》意《い》に負けてくれたのでしょうか、 「まあ、いいけど。ただし今度のレポート作成には協力してくれよな」  私は次に凌央《りょう》さんにも、 『お聞きになりましたか。これからは秀《ひで》明《あき》さんが指示を出してくれます。私がボディタッチで正《せい》確《かく》に中継しますので、ここからは本気の力を──』  私が言い終わらないうちに凌央さんは突然ダッシュを開始、ドリブル突破を図っていた巴《ともえ》さんに向かっていきます。 「えっ?」  驚《おどろ》いた顔をする巴さんからボールを瞬《しゅん》時《じ》に奪い取ると、 「…………」  その場でシュート。しめやかに三点追加、 「あらま」  琴《こと》梨《り》さんも珍しく口をポカンとさせていましたが、すぐにニッカリと笑って、 「へっへえ。やるじゃん凌央っ、こりゃこっちも本気出さないとねっ! さあ、勝負だ!」  遥《はる》か遠くから秀明さんが言いました。 「とりあえずやってみたけど、こんなのでいいのか?」  ええ、そりゃあもう。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  秀明さんの的《てき》確《かく》な指示通りに動く凌央さんは、まさしく鬼気迫る躍《やく》動《どう》ぶりを見せてくれました。瞬発力は琴梨さんとほぼ互角、並びにシュート精度は百発百中です。まさかここまでやるとは私にも意外でした。  それ以上に意外なのは、運動能力を限界まで引き出しているはずなのに凌央さんの呼吸がまったく乱れないところです、鼓動は高くなっていますが発汗はなく、この分では表情にも変化なさそうですねえ……。  いや、ちょっと待ってください。このまま続行していればどうなるでしょう。いくら彼女でも激《はげ》しい運動をおこなった後なら息を切らしたり額《ひたい》に汗をにじませたりするのでは? 赤らんだ顔でハァハァする凌央さん……。  おお! それはそれで平素見られない彼女の姿です! 当初の目《もく》論《ろ》見《み》から外れますが、むしろそっちのほうがいいような気がしてまいりました!  ですので、私は秀明さんに伝えました。 『もっと激しく操《そう》作《さ》してくれませんかね。意味なく反復横跳びするとか、コートの端から端まで全力疾走させるとか』 「何を言ってんだ?」  秀明さんは怪《け》訝《げん》な声を出し、次に妙に納得したように言いました。 「なるほどな。解《わか》ったよ」 『おお、解《わか》ってくれましたか!』 「僕の声は凌央《りょう》に聞こえているのか?」  私がスピーカーをオンにすると、 「いいか、凌央。背中のガニメデをどこか遠くに投げ捨てろ。それから僕の指示なんかじゃなくて、自分のやりたいようにプレイするんだ。だいたいやり方は解っただろう? その通りにすればいい」  なんてことを言い出すのですか! それでは私の計画が──。  ちょうどボールをドリブルしていた凌央さんは、秀《ひで》明《あき》さんのセリフを聞いてピタリと止まりました。 「もらいっ!」  マンツーマンで張り合っていた琴《こと》梨《り》さんがボールを横取り、凄《すさ》まじい速度で巴《ともえ》さんにパスを送りましたが、私は見ているヒマがありません。なぜなら、ゆっくりと背中に手を回した凌央さんが私を引きはがすと、 「…………」  しばらくじっと見つめた後、投《とう》擲《てき》体勢に入ったからです。 『あの……凌央さん?』  ぶん。  投げられる私。くるくる回転する視界。迫り来る体《たい》育《いく》館《かん》の壁《かべ》がどアップになったところで──、  私の記《き》憶《おく》は途《と》切《ぎ》れました。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  というわけで──。 「そうか。凌央んとこは負けたか。まあ、しょうがないな」  秀明さんは全員に自家製バニラアイスを配りつつ言っております。場所は館《やかた》のダイニングキッチン、帰宅したばかりの五人のお嬢《じょう》さまたちもテーブルについています。 「でもスゴかったんだよ。凌央ちゃん。ね、大《だい》活《かつ》躍《やく》だったねえ」  あろえさんはぱくぱくとアイスを頬《ほお》張《ば》りながらニコニコと。  琴梨さんはアイスを一口で丸飲みし、 「びっくりさっ。凌央、高等部に上がったらバスケ部入りなよ! あたしも入っとくからさっ」  巴さんはどことなく憮《ぶ》然《ぜん》として、 「凌央ったら、どこにあんな力があったのです? もっと普《ふ》段《だん》からあれくらい動くようになさい」  きっと秀《ひで》明《あき》さんが教えた真相がちょっと気に入らないんでしょうね。彼が少しだけでも凌央《りょう》さんを動かしていたというのが。 「う……(ぱく)……う……(ぱく)」  埜《の》々《の》香《か》さんはアイスをすくって食べるたびにこめかみを押さえ、また食べるという仕《し》草《ぐさ》をしています。冷たい物が苦《にが》手《て》なのでしょう。 「…………」  凌央さんは緩《ゆる》やかなモーションでチビチビと食べています。完食までは当分かかりそうですね。  やがて彼女をのぞく四人は、空になった容器を流しに片づけると、「先にシャワーを浴びてくる」と言って台所から出ていきました。  残されたのは秀明さんと凌央さんだけです。 「そういやガニメデは?」  秀明さんの質問に、凌央さんはスプーンを握っている手と逆の手を挙げました。  マニピュレータをつかまれてブラブラと揺れる私の端末。手足をダラリと垂らし、レンズを白目に剥《む》いています。無《む》駄《だ》なギミックだったかもしれません。  ああ、今こうして実況している私ですか? 皆さんお忘れのことでしょうが、私の本体は館《やかた》の地下に埋設されている筐《きょう》体《たい》であって羊型ぬいぐるみは私の一部、自律|機《き》動《どう》型の端末にすぎません。ですので端末が意《い》識《しき》を失ってもナレーションできるというわけなのです。  そのまま彼女は手を離《はな》して、機能を停止していた私(=端末)はゴンと床《ゆか》に落ち、 『……ウウ……ウウウ……はっ!』  ぴょんと跳ね上がるとギュルギュル目を回しました。  ハァ、やっと端末の機能が回復しました。保存していた記《き》憶《おく》データを館地下の本体から転送し、視点を切り替えます。 『おおっ! いつのまにっ! 球技大会は!? 体《たい》操《そう》着《ぎ》のアンダー15はっ!?』  秀明さんが首を振りながら、 「とっくに終わってるよ。バスケの優《ゆう》勝《しょう》は巴《ともえ》と琴《こと》梨《り》のチームだそうだ。それでお前は何で今まで寝ていたんだ?」  私(=端末)は歯ぎしりをしつつ、 『あなたの無体な命令のせいですよ。どうやら壁《かべ》にぶつかった衝《しょう》撃《げき》で回《かい》線《せん》が接触不良を起こしていたようですな。今ので直りました』 「雑な造りだな。精密機械とは思えない」 『それだけユースフルということです。そんなことより秀明さん、ヒドいではないですか。私の計画を邪《じゃ》魔《ま》するなんて』 「計画って?」 『勝利の栄冠を手にした凌央《りょう》さんが天使のような笑《え》みを浮かべているところを激《げき》写《しゃ》するという、非常に健全かつ有意義な計画です』 「うそつけ。どうせ凌央をやたらと運動させてハァハァしているところでも見ようと思ってたんだろう」  バ、バレてる!?  秀《ひで》明《あき》さんは追及する目で私を見て言いました。 「女子校についていった時点でお前の本心なんか解《わか》り切ってるよ。この家だけじゃ飽きたらず、単に体《たい》操《そう》服《ふく》の女の子たちを盗《とう》撮《さつ》したかっただけだろ」  こうなったら腹をくくりましょう。正直者は最終的に得をするものです。  私は今日《きょう》一日の行動を詳しく秀明さんに教えてあげました。凌央さんの鞄《かばん》に忍び込んでから、体《たい》育《いく》館《かん》の壁《かべ》に激突するまでの逐《ちく》一《いち》を。  長い話になりましたが。 「道理で。お前にはいい罰だ。そのままずっとショートしてりゃもっとよかったのに」 『冷たいお言葉。体操着の女子校生の躍《やく》動《どう》する肢《し》体《たい》を見たいとは思わないのですか?』 「見るぶんには、まあ……いいかもしれないけど、忍び込んじゃダメだろ。これに懲《こ》りてしばらくおとなしくしとけ」  相変わらずの優《ゆう》等《とう》生《せい》ぶり、私はちっとも面《おも》白《しろ》くありません。今日は完全に消化不良です。もっと凌央さんを……。  おっ。ここでいいことを思いつきました。 『秀明さん、ちょっと私を持ってくれませんか』 「どうして?」  言いつつ秀明さんは素直に従ってくれます。 『そして、このまま凌央さんに背を向けて』 「何をする気だ?」  準備完了。私は次のように言いました。  ただし、秀明さんの声をそっくりに真《ま》似《ね》て。 『凌央、すまないがここで服を脱いでくれないか。今すぐ』 「おい、何を……っ! うわ」  凌央さんはじっと秀明さんを見つめた後、すっくと立ち上がって素直に服を脱ぎ始めました。 「わっ、凌央! 何してんだ? おいこら、ガニメデ! 今の声は何だ」  狼《ろう》狽《ばい》する秀明さんですが、私はほくそ笑んでおります。凌央さんは秀明さんの指令には深く考えず従ってしまう模様です。ならば彼と同じ声で言えば私の指令でも可ということですな。腹話術の一種とでも申しましょうか。 「凌央、脱ぐなって!」 『いや、どんどん脱ぎなさい(秀《ひで》明《あき》さん声)』  凌央《りょう》さんは一《いっ》瞬《しゅん》止めた手を再開、ボタンを外し終えたシャツをハラリと床《ゆか》にっ床に! 「わわっ」  うろたえまくった秀明さんは、私を放って凌央さんに駆けより、ブラウスを脱ぎ捨てようとする手をつかみました。  そこにグッドタイミング、 「何を騒《さわ》いでいるのです?」  巴《ともえ》さんが濡《ぬ》れた髪を手でまとめながら顔を出しました。 「な……」  驚《おどろ》きの表情で固まった巴さん。秀明さんも「やば」みたいな顔をして硬直し、凌央さんは動かない目でじっと秀明さんを見上げて、少しだけ首を傾《かし》げました。  そのまま十秒ほどの沈《ちん》黙《もく》。  やがて煮えたぎるマグマのような声が、 「な、な、なんということを……。わたしたちがお風《ふ》呂《ろ》に入っているのをいいことに、りょ凌央を、台所で、ハハっ裸にしようと……!」  巴さんは風呂上がりの肌をさらに上気させて、それはそれは恐《こわ》い目で秀明さんを睨《にら》み、 「見下げ果てましたわっ! そこで待っていなさい! すぐに成敗してあげますっ!」  脱《だっ》兎《と》のように走り去ったかと思うと、すぐに竹刀《しない》を持って戻ってきました。 「邪念退散!」  上段に振りかぶって秀《ひで》明《あき》さんに襲《おそ》いかかる巴《ともえ》さんでした。真《ま》っ赤《か》な顔をしておりまして、実に可愛《かわい》いですな。 「誤解だ違う、だから、おい、ガニメデ!」  逃げ回る秀明さんの横で、凌央《りょう》さんは無言で立ちつくしていました。下着の端に手をかけておりますものの、ぴたりと動きを止めているのが残念ですが。  他《ほか》の風《ふ》呂《ろ》上がり三人衆も駆けつけてきます。あろえさん、埜《の》々《の》香《か》さん、琴《こと》梨《り》さんの順で、 「あれーっ。どうしたの?」 「わわ……ひぃ……」 「わはははっ! また痴《ち》話《わ》喧《げん》嘩《か》かなっ?」  ところで凌央さんは、この騒《さわ》ぎの中でも下着に指を触れさせたまま静止しておりましたが、 「…………」  それまで見つめていた秀明さんから目を外しました。そして、おお! 私を熱《ねっ》心《しん》に見つめてくれているではないですか! さらに……およっ?  皆さん、秀明さんと巴さんの文字通りのカラ騒ぎに気を取られて気づいておられないようです。私のみがそれを見ることができたでしょう。まさに一《いっ》瞬《しゅん》でしたので、いやなんとも不覚です。私ともあろうものが録《ろく》画《が》のタイミングを逃してしまいました。わずか、ごくわずかなコンマ秒単位の出来事でした。 『凌央さん?』 「…………」  すでに彼女は別の方向を見ております。私の声など耳に届いていないようにぼうっとした顔で他《ほか》のお嬢《じょう》さまがたを眺めておられますが、しかしっ!  本当なのです。間違いなく見ました。  私と目があったその瞬間──。  凌央さんが天使のように愛らしく微笑《ほほえ》んでくれたのです! ひょっとしたら八《や》重《え》歯《ば》が覗《のぞ》いたのを拡大解釈しているだけかもしれませんが、私の心眼にはちゃんと見えました。この感動を私はスクラップ処理されるその日まで忘れることがないでしょう! 一日の苦労が一瞬にして報《むく》われる思いです!  むろん、私のような最|優《ゆう》秀《しゅう》人工知性体が廃棄されるようなことはあり得ませんから、いつまでも私はこの記《き》憶《おく》を持ち続け、時代の生き証人として後世に語り続けることになるのです。近未来の私に羽が装備され、自在に天空を飛び回る機《き》能《のう》が付加されていることを希望します。そうなれば地上のどこにでも行き放題、忍び込み放題! 羽ばたけ私! ガニメーデスよ永遠な 『れ──?』 「覚悟ぉ!」 「よせって!」  秀《ひで》明《あき》さんはテーブルから私を取り上げると、巴《ともえ》さんの一《いち》撃《げき》を私の身体《からだ》で受け止め、  ばっこん、ブチッ──。 〈システムダウン。ビューモードを本体ヘシフト、レディ、ラン〉  ……やれやれ。私の端末はまた接触不良を起こしたようです。騒《さわ》ぎが収まったら本格的に直してもらわないといけません。よろしくお願《ねが》いしますよ、凌央《りょう》さん。  彼女はまるで私の声が聞こえたように天《てん》井《じょう》の隠しカメラを見上げ、こくりとうなずいてから、 「…………」  半裸のまま黙《もく》々《もく》とアイスの残りを食べ始めるのでした。 [#改ページ] 第九話『シスターアクシデント』  月日は瞬《またた》く間に流れて、非日常的としか思えなかったEOSとの戦《せん》闘《とう》風景も、何だか普通の日常に埋没してしまう程度に慣《な》れてしまった頃《ころ》のことだ。  ちなみにこの僕、逆《さか》瀬《せ》川《がわ》秀明というのが本名なんだけど、もっぱら最近は「ひーくん」とばかり呼ばれている。  なぜそうなのかと考えてみれば、僕の大学も彼女たちの女子校も休みに入ったため、ほとんど彼女たちだけと一日中を一《いっ》緒《しょ》に過ごしているせいだ。僕をそう呼ぶのはあろえと琴《こと》梨《り》だけだったけど。  春休みである。なのに五人の女の子たちは実家に帰ろうともせず、休み中でもこの爺《じい》さんの館《やかた》で毎日が日《にち》曜《よう》日《び》のような振《ふ》る舞《ま》いを見せていた。EOSが神出鬼没である以上、ここで待《たい》機《き》しているのが世界のためには一番なのだが、彼女たちの親御さんたちはそれでいいのか、少しは疑問に思う僕であった。  なにしろ春休み。ということは、僕がここにやってきて初めて彼女たちと出くわしてからそろそろ一年になるということだ。おかげで色んなことが解《わか》った。特に女子中学生と女子高生の不可解な生態については誰《だれ》よりも教えられた気分だ。  もっとも、あろえと埜《の》々《の》香《か》と凌央《りょう》が女子中学生の典型とはあまり思えないし、巴《ともえ》と琴《こと》梨《り》が女子高生の手本とは全然思えるわけもなかったが、それにしたって一年近く同じ屋根の下にいれば、さんざんガニメデから「私と身体《からだ》を入れ替えてください』とか『あなたの脳に私の端末を埋め込みたい』とか言われ続けている僕にだって少しは解ったことがある。少女たちの胸の内は猫の生態並みに不可解だということが。 『いまだに何を言ってるんですか』  茶々を入れるのは、やはりガニメデだ。 『猫だって一年もあれば誰が一番オカズを分けてくれる人間かを判別できます。晩ご飯時にあろえさんと埜々香さんの周りに群れている猫たちにも解ることが解らないとは、あなたの神経は猫以下ですか』  かもしれない。実際、凌央はほとんど喋《しゃべ》らないし、埜々香はその次に喋らないが、五人の中で最も考えていることが伝わってくるのは、その二番目に無口な埜々香だった。表情を見ているだけで解るから。 『私が先を思いやって早一年、秀《ひで》明《あき》さん、あなたには失望する思いを禁じ得ません』  こんな会話をしているのも、早い話がいつもと同じである。放っておくと夜《よ》這《ば》いだの既成事実だのと言い出すに決まっているガニメデを部屋に残し、僕は板張りの廊下に出た。そろそろ夕食の買い出しの時間だ。  限りある財布の中身でどれだけの料理を作れるか、最近はそれが僕の考えを占める重要事項である。こんな赤《せき》貧《ひん》の家政婦的生活にもすっかり慣《な》れていた。  冷蔵庫の中身を確《かく》認《にん》しようとキッチンに向かおうとした僕は、不意に鳴り出した電話の音で立ち止まった。玄関先に置かれている旧式の黒電話が昔ながらの無《ぶ》骨《こつ》なベル音を奏でていた。居間から顔を覗《のぞ》かせたあろえより早く受話器を上げる。 「もしもし」 『五十|億《おく》年だ』  挨《あい》拶《さつ》もなしに話し出した遠い声を、僕が聞き違えるわけはない。 「爺《じい》さん……爺さんだな?」 『いいか、秀明。私が間に合わなかった場合、お前がそう告げるのだ。いいな』 「ちょっと待って、それ、どういう、」 『時間がない。私もなるべく早くそちらに戻る。だが、間に合う保証がない。秀明、覚えたか?』 「五十|億《おく》年? 何だよ、それ。のっけからそんなことを言われても……そうだ、今どこにいるんだ?」 『どこかの次元の狭《はざ》間《ま》だ。まだ彷徨《さまよ》っている。しかし、いつまでもこうして……(ザザ)』  雑音が混じった。僕は慌てつつ、 「爺《じい》さん! 地下金庫のパスコードを教えてくれないか? 通帳と実印の入っている、」 『(ザザ)……秀《ひで》明《あき》、いいか、五十億年だ。(ザザ)忘れるな。それが(ザザ)……だ……』  ぷつっ。ツーツーツー。  いきなり切れた。何なんだ? どこかの時空にすっ飛んで行った爺さんから電話があったと思ったら、突然意味不明なことを言い出してあっさり切れてしまった。  五十億年?  顔に続いて身体《からだ》を出してきたあろえが、 「ひーくん、なにー? 誰《だれ》からだったのー?」  僕は受話器を置き、 「間違い電話だったよ。気にしないでいい」  安心させるつもりで言ったところ、あろえは満面に笑顔《えがお》を広げて、 「ふうん? そうだったんだー?」  また居間に顔を引っ込めて、「間違いだって」と誰かに言っている。  さてリビングにいるのは誰だろうと見てみたら、埜《の》々《の》香《か》と凌央《りょう》がテーブルにノートと英語の問題集を広げていた。どうやら休み期間中に課《か》された宿題をやっているようだ。 「…………」  黙《もく》々《もく》と鉛筆を走らせる凌央とは違い、埜々香は悲壮な顔をしてノートに泣きそうな目を向けていた。  あろえが手招きして、 「ひーくーん、ちょっと教えて欲しいんだよ。ののちゃんも解《わか》んないけど、あたしも解んないとこばっかりだよー」 「いいよ」  理数系科目以外ならば、中学生相手の家庭教師のまねごとなら僕にもできる。これでも最高学府に通う身の上だ。  リビングに入りかけた僕の足もとを、でっかいゴキブリみたいなものが走り抜けた。 「私にお任せあれ!』  ガニメデだった。いつのまにか僕の部屋から出てきたらしい。 『ヒルベルト問題をすべて解き明かしている私に解けないものなどこの世に存在しません! 英語だろうとヒエログリフだろうと、たちどころに翻《ほん》訳《やく》して差し上げます! その代わりと言っては何ですが、フフフ……私のこの外《がい》観《かん》が少々汚れ気味でしてねえ、そろそろ手洗いもしくは入浴の必要があるのではないかと思います。ええ、強く思います! さぁ、誰《だれ》が私をお風《ふ》呂《ろ》に入れてくれるのですか!』  マニピュレータを振り回すガニメデに対し、埜《の》々《の》香《か》はきわめてハッキリと怯《おび》えているようで、凌央《りょう》は鮮《あざ》やかに無視、あろえは、 「ガーくん、宿題は自分でやんないとダメダメだよ。教えて欲しいのは答えじゃなくて解き方なんだよー、ね?」  確《たし》かにガニメデにすべてやらせれば全問正解になるかもしれない。しかし、あろえの言うとおり、それでは何も身につかないだろう。ほわほわしているように見えて、案外しっかり者のあろえだった。 『そんな……! コンマ二秒もかからない問題を解き方から教えるなんて、私には苦行でしかありません。あんまりです』  何があんまりなのかと問いただす前に、僕の背後から声がかかった。 「じゃあさ! あたしの数学問題集をやらしてあげるよっ」  琴《こと》梨《り》が廊下に立って、そして僕の肩にしがみつくように身体《からだ》をくっつけてきた。 「あたしも宿題には頭痛めてたところだっ。いざとなったら巴《ともえ》のを丸写ししたらいいんだけど、そろそろ先生にバレそうでさ! 困ってたところだよっ」  ニッカリと笑いながら、手にしていた問題集をポイと放り、 「ガー、あたしでよければお風呂なんかいくらでも一《いっ》緒《しょ》に入ったげるっ」 『おお……我が入浴の女神よ!』  さっそくガニメデは琴梨の問題集を拾い上げると、一《いっ》瞬《しゅん》にして凌央の手から鉛筆をかすめ取り、『神の手|炸《さく》裂《れつ》!』と叫びながら目にも止まらぬスピードで一ページ目から猛然と書き込みを開始した。 「…………」  握っていた筆記用具を取られた凌央は、そのまま黙《だま》って指だけを動かしていたが、ゆるゆるとガニメデの方向に顔を向け、そしてゆっくりカンペンケースから新たな鉛筆を取り出して、黙《もく》々《もく》とノートの書き込みを再開した。 「琴梨ちゃんはいいなー」  と笑顔《えがお》で言ったのはあろえだ。 「頭いいもんねぇ。勉強しなくてもテストの点数いいんだよねー?」 「あっはっはっ」  琴梨は僕にぐりぐりと上半身を押しつけて、 「授業を適当に聞いてれば解ける問題ばっかだよ! やってて面《おも》白《しろ》くないっ。だからあたしはやってて面白いことしかしないのさっ」  僕がどうやって琴梨の腕から逃れようかと考えていると、 『おや』  ガニメデが神速の動きを見せていた手を止めて、両目のレンズをにゅるりと回転させた。 『お客さんが来られたようですな』  と、同時に、玄関方面から何やら騒《さわ》がしい声が家の中に届いた。 「ん?」  僕は眉《まゆ》をひそめた。喚《わめ》いているような甲《かん》高《だか》い声である。どっかで聞いた覚えのあるような……。 「お客さんー?」  あろえが嬉《うれ》しそうに笑顔《えがお》を咲かせ、逆に埜《の》々《の》香《か》はただでさえ小さい身体《からだ》をますますすくませる。そんな二人を目の端に映しつつ、僕はやっと琴《こと》梨《り》から離《はな》れて玄関へと向かった。  怒《ど》鳴《な》り声がドアの向こうで続いている。  妙な懐《なつ》かしさを覚えながら、僕はドアを開けた。途《と》端《たん》、 「なによこれ! 離しなさいよ!」  懐かしいのも当然だった。そのお客さんは一年ほど前に僕が引っかかった掌《しょう》紋《もん》認《にん》識《しき》装置に腕を飲み込まれていた。DNAを採取するとかいうアレである。いや、それ以上に驚《おどろ》いたのは、玄関でジタバタしているその少女の顔に見覚えがあったからだ。 「李《り》里《り》……?」  中学三年生、今年《ことし》でそういや高校生だ。顔を見るのは一年ぶり、少し背が伸びたかな……と僕が唖《あ》然《ぜん》として見守っていると、李里は自由になった腕を勢いよく引き抜き、 「おじいちゃん、冗《じょう》談《だん》もたいがいに、」  プリプリ怒りながら玄関口に足を踏み入れて、そこでやっと僕に気づいた。 「あ」  李里は一年前とほとんど変わらないボブカットを傾け、瞬《まばた》きした後で、 「お兄ちゃんっ!」 「えええええ!?」  居間にいたはずのあろえと琴梨とガニメデが飛び出してきた。 「ひーくん、お兄ちゃんだったのー?」 「わははっ。妹だっ、妹が来たっ!」 『おおう! この人が秀《ひで》明《あき》さんの……。いや、知ってはいましたが現物が来るとは!』 「な……!」  僕の妹、李里はあんぐりと口を開けて踏み入れた足を止め、目をも見開いて僕の背後に視《し》線《せん》を飛ばしていた。 「何これ。というか何よ、あんたたち……」  言いかけた李里だったが、あろえと琴梨とガニメデに続き、おそるおそる顔を覗《のぞ》かせた埜《の》々《の》香《か》と黙《もく》々《もく》と姿を現した凌央《りょう》を目にとめて、 「うわっ、まだいたっ!?」  それだけならまだよかったのだけど、 「どうしました? 騒《さわ》がしいったら」  最後に登場したのは巴《ともえ》である。騒ぎを聞きつけて自室から下りてきたらしい。 「まったく、おちおち勉強もできませんわ。ところで先ほどの奇っ怪な叫び声は──」  と言ったあたりで棒立ちの訪問者に気づいた。李《り》里《り》と同じくらいに目が開かれる。 「だ……誰《だれ》です?」 「妹の李里」  僕は巴に言った。 「僕とは四つ違いの」  今年《ことし》で十六、まだ十五のはずだ。 「あんたこそ誰よ」  李里は巴を睨《ね》めつけて、そして僕と五人の少女たちをかわりばんこに眺めた。 「いちにい……五人? うわぁ。あれ? なんで? お兄ちゃん、まさか……。ええっ?」 「いやあ……」  僕は頭をかくしかない。 「実はわけがあってこの子たちと暮らしてるんだ」  李里のまぶたが限界まで開かれた。 「げっ! うそっ。お兄ちゃんが女を引っ張り込ん……それもこんなにたくさん? ハーレム? これ、夢?」 『いえ現実です』  李里はのそのそと動くガニメデを見て逃げるように飛びすさった。 「うわっ、羊のぬいぐるみが喋《しゃべ》ってる!?」 『おお! 感動です。なんと素直なリアクション! 秀《ひで》明《あき》さん、あなたもこれくらいのことをやって欲しかったですよ』  あんときは埜々香の介《かい》抱《ほう》と巴の辞書|攻《こう》撃《げき》を防ぐのに精一杯だったんだよ。 「妹さん……ですか」  巴が妙な顔をして呟《つぶや》いた。まじまじと僕と李里を見比べながら、 「あまり似ておりませんわね」  李里はなぜか目を吊《つ》り上げた。 「ほっといてよ! 似てようがどうだろうがいいじゃないの、あたしだって似てなくてよかったって思うわよ! それがどうしたっていうのよ!」  僕の妹の剣《けん》幕《まく》に、巴が一歩後退した。 「いえ、わたしは別に……単に見たままを言っただけですわ」 「余計なお世話よ!」  李《り》里《り》は僕たちを順《じゅん》繰《ぐ》りに睨《にら》みつけていたが、ハッとしたように、 「お爺《じい》ちゃんは? お爺ちゃんはどこ?」 「行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》だ」と僕は本当のことを答える。 「はあ? いつから!?」 「僕が来たときには、もういなかったな」 「てことは……?」  わなわなと震《ふる》え出す李里に、僕も後ずさった。 「ずっとこの女たちと一《いっ》緒《しょ》だったってわけ? 一年も? お爺ちゃん抜きで?」 「ま、まあそうなるかな……」  依然としてタジタジとする僕だった。こいつは何を怒ってるんだろう? 「信じられないっ」  と叫ぶ李里。 「いったい何やってんの!? 真《ま》面《じ》目《め》に大学行ってると思ってたのにっ、こんな、こんなことしててっ!」  いや、僕は別に何も──と、言いかけた僕の背中にぶつかるものがあった。 「お兄ちゃあん」  後ろから抱きついてきたのは、琴《こと》梨《り》だった。 「ひーくん、お兄ちゃんだったのかっ。いいなっ、あたしにも呼ばせてよ! あたしんちには女しかいないからさっ、ちょうどお兄ちゃんが欲しいと思っていたところだ!」 「あー、ずるい。あたしもひーくんならお兄ちゃんで欲しいんだよー。ねえ、ののちゃん」  あろえの脳天気な言葉に、埜《の》々《の》香《か》はすでに腰を引かせていた。じろりと睨みつける李里の視《し》線《せん》を浴びて、ほとんど失神しそうである。埜々香は初対面の人間を相手にすると必ず挙《きょ》動《どう》不《ふ》審《しん》になるのである。 「あわわ、わわ……」 「…………」  凌央《りょう》だけが不変の無表情、まるで部外者のように僕たちを眺めている。李里の突然の来訪にも何の感想もないようで、瞬《まばた》きしない目を僕と李里の間に向けていた。 「琴梨!」  巴《ともえ》が叫んだ。僕の首に腕をからみつけている琴梨に、 「どさくさに紛《まぎ》れて何をしているのです! 離《はな》れなさい!」 「いいじゃん」  琴梨は僕の耳《じ》朶《だ》に息を吹きかけながら、 「ひーくんがお兄ちゃんだっていうんなら、せっかくだ! あたしたちのお兄ちゃんにもなってもらおうよっ。ね! いいよね、ひーくん、じゃなくてお兄ちゃん!」  僕が何とも言いかねていると、巴《ともえ》は顔を紅《こう》潮《ちょう》させて琴《こと》梨《り》の首根っこにつかみかかった。 「およしなさい! 琴梨、あなたは錯《さく》乱《らん》しています! その人はあなたのお兄ちゃんではありません!」 「むぅぅ?」  李《り》里《り》は変な声を漏らすと、僕に抱きつく琴梨と引きはがそうとする巴を見据え、 「ひーくんですって? なんなのよ。あんたたち、お兄ちゃんをひーくんなんてマヌケな呼び方しないでくれる? それから、お兄ちゃんはいちおうあたしのお兄ちゃんであんたたちのお兄ちゃんじゃないんだからね!」 「いいじゃん、ねえ? お兄ちゃーんっ」  琴梨が首の裏にすりすりしてきて、僕は大いに弱り切った。 「おやめなさい!」  巴が叫んでいる。 「離《はな》れるのです、琴梨!」  巴は琴梨の首を引っ張りながら、李里のほうへ顔を向けて目の端を吊《つ》り上げた。 「それから、そこのあなた、ひー……博士の孫の方の妹さん、わたしはひー……この博士の孫の方をひひひひーくんとも、お兄ちゃんなどとも呼んだことはありません!」 「じゃ、何よっ!」  李里も叫び返した。 「あんたたちはお兄ちゃんの何よっ! なんで一《いっ》緒《しょ》に暮らしてんのよっ! もう、バカバカっ!」 「誰《だれ》がバカですかっ、わたしだって何も好きこのんで……その……」  勢いのよかったセリフの語尾をごにょごにょと詰まらせてから、巴はキッと目を上げた。 「これには深いわけがあるのです!」 「どういうわけよ!」  李里は恐《こわ》い目をして、 「言いなさいよっ、今すぐ説明しなさいよ! あんた何よ! どこの誰なのっ!」 「あのさ、李里」  割り込んだほうがいい気がして、 「お前もお前だ。来るなら来ると電話ぐらいしろよ。突然来られても──」 「電話ならしたわよ。咋日《きのう》」  李里は憮《ぶ》然《ぜん》と腕を組んだ。 「ちゃんと用件も告げたわ。あれ、何だったの? ずっと無言だったから留守電かと思ってメッセージ吹き込んだつもりだっんだけど」  僕は埜《の》々《の》香《か》を見た。埜々香は大急ぎでかぶりを振る。次に凌央《りょう》を見た。 「…………」  無言のまま凌央はこくりとうなずき、僕は溜《ため》息《いき》をつく。そういうことか。  きっと李《り》里《り》は一方的に訪問の旨《むね》をまくし立てたに違いない。凌央はそんな妹のセリフを黙《もく》々《もく》と聞いていたのだ。そして、その件を誰《だれ》にも言うことなく受話器を置き、今まで普《ふ》段《だん》通りにしていたらしい。これでは対策の立てようもないな。  妹はなおも叫ぶ。 「お爺《じい》ちゃんはどこ行ったの? この女たちと喋《しゃべ》る羊は何なの! お兄ちゃん、全部説明してちょうだい!」  背中にしがみつく琴《こと》梨《り》と剥《は》がそうとしてくれている巴《ともえ》、楽しそうに見ているあろえとその陰《かげ》に隠れている埜々香、棒立ちの凌央を確《かく》認《にん》して、僕はガニメデに言った。 「どうしよう?」 『そうですねえ』  ガニメデは眼球レンズをくるりと回し、 『おいおい解《わか》っていただけるでしょう。まずは司令室へ案内するのが筋と言えます』 「司令室って何よ?」  と、李里。 「何の司令?」  さすが僕の妹、僕と同じことを考える。しかし今はガニメデに同《どう》調《ちょう》しておこう。 「行けば解る。というか、行かないと解らないんだ。たぶん……」 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  懐《なつ》かしい展開だった。僕たちはぞろぞろと館《やかた》の地下に向かい、司令室の扉を開いて李里にその全《ぜん》貌《ぼう》を明らかにしてやった。 「司令室って……これ? なんか原寸大のおもちゃの秘密基地みたいだけど」 「爺さんの懐《かい》古《こ》趣《ちゅ》味《み》だろ。僕もそう思ったよ」  ワイドスクリーンが壁《かべ》を覆《おお》い、オープンリールを回すデカい箱付きのレトロな部屋を一望し、李里は古風な応接セットのソファに腰掛けた。  その横にすかさずガニメデが飛び乗る。 『ではお待ちかね、ご説明を開始しましょう。博士は現在、いずことも知れぬ時空を彷徨《さまよ》っておられます。それというのも──』  一年前に僕が聞いたのと同じナレーションである。ガニメデが熱《ねつ》弁《べん》を振るうに従い、李里の頭はぐらぐらと揺れて、ついに片手を額《ひたい》に当てるまでになった。  あろえが人数分のお茶を慎重な足取りで運んでくるまでの時間が経過して──。 「そんなん、ありっ!?」  李《り》里《り》がそう声を上げたとき、僕も他《ほか》の五人も、ソファに座ってあろえの淹《い》れたやたら濃《こ》い日本茶を飲み干したところだった。 「イオス? EOSですって? なにそれ、何の略? 戦う女神たちり? アテネの化《け》身《しん》て何のこと? そんなアホみたいなことで、この女たち、あたしのお爺《じい》ちゃんの家でお兄ちゃんと住んでんの? ずっと? あっきれた!」  巴《ともえ》の柳《りゅう》眉《び》がキリリと逆《さか》立《だ》つのが解《わか》った。 「アホみたいとはなんですか! わたしたちは真剣に世界の危《き》機《き》に立ち向かっているのです! これは真《ま》面《じ》目《め》なお仕事です!」 「なおさらバカよ!」  ひるまない李里だった。  こいつ、こんなに怒りっぽい奴《やつ》だったっけ? 「そんなの警《けい》察《さつ》か自《じ》衛《えい》隊《たい》に任せればいいのに、なんだってそんなことしてんのよ。言っとくけど、あたしはあんたたちなんか認めないわ。ええ、絶対認めたりしないんだから!」  李里はまっすぐ巴にキッツい視《し》線《せん》を浴びせていた。巴も負けてはいない、ケンカを売られたボス猫のように、尖《とが》った目を李里に据え付けている。  本当に猫のケンカみたいだな、と思っていると肩をバンバンと叩《たた》かれた。 「くひひひひ」  白い前歯を見せつけて、琴《こと》梨《り》が僕の肩を叩いている。そして小声で、 「いいねえっ。妹さん、きっとお兄ちゃんが心配なんだよ。巴も最高! 李里ちゃんに敵《てき》愾《がい》心《しん》を燃《も》やしちゃってさっ。うひひひひ」  笑っているのは琴梨と、いつも笑っている顔のあろえだけ、埜《の》々《の》香《か》は知らない人がやって来てずっとオドオドしているし、凌央《りょう》はいつもの調《ちょう》子《し》、ガニメデはこの機を逃さず李里をじっくりと盗《とう》撮《さつ》している、  EOSでも出てこないものか、と僕はここに来て初めて、耳障りな警報を待ち望んだ。 [#ここから7字下げ] ◎ ◎ ◎ [#ここで字下げ終わり]  さて──。  いきなり登場したその妹、逆《さか》瀬《せ》川《がわ》李里は憤《いきどお》っていた。怒ってもいた。それ以上に戸《と》惑《まど》っていたというのが正解だ。  この春、彼女は高校に進学する。中学生活最後の春休みを久しぶりにお爺さんの家で過ごそうとやってきたら、そこに祖父の姿はなく、代わりに五人の変な女の子たちとオバケ羊がいて、でもって兄と暮らしていた。  なんなのこれ? と李《り》里《り》は思ったのだった。  高校入試に備えて年末から正月はずっと受《じゅ》験《けん》勉強していたし、お兄ちゃんは盆にも正月にも帰ってこなかったし、どうしてんだろ。お爺《じい》ちゃんと二人でなんかわびしい生活を送ってるんじゃない?  などと考えて、様《よう》子《す》を見に行くときを楽しみにしていた。きっと二人してぼんやりしてるに決まっている。縁《えん》側《がわ》でお茶飲みながら将《しょう》棋《ぎ》してるとかだ。うん、高校合格の報告も兼ねて、遊びに行ってみよう。  なのに──、  彼女の兄、逆《さか》瀬《せ》川《がわ》秀《ひで》明《あき》は妹である李里から見て普通すぎる兄だった。ものすごくカッコよくもなければ、抜きんでて頭がいいというわけでもない。ただし友達の兄を見てそっちのほうがよかったと思ったこともない。友達に羨《うらや》まれたこともないけど。  ようするに普通だ。そんな「ふつう」な四つ年上の兄が、なんていうこと、女の子五人とずっと暮らしてるんですって? あたしに黙《だま》って? どういうこと、それ。  もちろん彼女は秀明の性格をよく知っていた。親《しん》戚《せき》同士で集まったりすると、彼女の兄は若い頃《ころ》のお爺さんにそっくり、性格もそのまま隔《かく》世《せい》遺《い》伝《でん》で受け継いでいると笑い話の種になったりする。  そんなもんかと李里は思っていた。だから大学進学とともに家を出て行くことになった兄を見送る際にも特に何も思わず、兄の部屋を物置代わりにできると思って舌を出したくらいである。  ──それにしたって。たまに帰ってきてもいいじゃないの。一年間のほったらかしはちょっと長すぎるんじゃない? そりゃ、あたしはいいけどさー。お母さんとかお父さんとかさー、顔を見たいと思うじゃない。  さては……。この女たちと暮らしてんのが楽しさ満点で、それで帰ってこなかったってわけ? だったら、なんかムカツク。なんでムカツクのかは解《わか》んないけど、でもやっぱり気に入んない。 「もう!」  憤《ふん》然《ぜん》と李里は立ち上がった。 「あんたらがここにいるのは解ったわ、お爺ちゃんのしたことなら仕方ないわよ。でも、あたしもわざわざ遊びに来たんだから、これで帰るわけにはいかないわ! しばらく泊まっていくから!」 「ああ、それもちょっと言わないといけないことがあるんだよ」  彼女の兄は言いにくそうに、 「お前がここに来るたびに使ってた部屋なんだけど、すでに巴《ともえ》の部屋として使われているんだ。別の部屋で寝泊まりして欲しいんだけど、いいかな?」 「なんですってえ?」  よりにもよって、一番気に障る女の部屋になってるってわけ? 巴《ともえ》とか言う女、妙にお嬢《じょう》さまチックで、そいで初《しょ》見《けん》からなんだか気にくわない美人だった。 「知りませんでしたわ」  巴は形勢不利を自覚したのか、やや顔を曇《くも》らせながら、それでも譲《ゆず》る気はなさそうで、 「私は今の部屋が気に入っております。別の部屋に移るのは気が進みません」 「ふん」  李《り》里《り》は鼻を鳴らした。 「いいわよ。お爺《じい》ちゃんたら、可愛《かわい》い孫のことを忘れるくらいせっぱ詰まってたんでしょうよ」  李里はじっと兄を見つめ、 「あたしはお兄ちゃんの部屋に泊まって一《いっ》緒《しょ》に寝るから。いいよね、お兄ちゃん?」 「え、ああ……まあ」  秀《ひで》明《あき》は戸《と》惑《まど》い顔。 「なりません!」  巴が顔を真《ま》っ赤《か》にして、 「男女三歳にして席を同じうせずですっ!」 「いつの時代よ。それにあたしなら、ちょっと前までお兄ちゃんと同じ部屋で寝てたわよ」 「なんですってぇ!」  血の気を引かせた巴に、兄がフォロー、 「十年くらい前の話だよ」 「お風《ふ》呂《ろ》だって一緒だったし」と李里。 「ななな、なんですってぇ!」  と、怒っている巴を、秀明は首をひねってみてから、 「それは十年以上前だ。李里、いい加減なことを言うなよ」 「いいでしょ、本当のことじゃん。洗いっことかもしてたでしょ」 「それは僕の記《き》憶《おく》にはないな。そうだっけ?」 「ななななななななな……!」  今にも卒倒しそうな巴を横目に捉《とら》えながら、李里はそっぽを向く。  顔色と目《め》線《せん》でもうバレバレ。このお嬢さまみたいな女、お兄ちゃんとどういう関係?  強気の視線を巴とさりげなくぶつけ合っていると、背後から不気味な笑い声が聞こえた。 「うひゃひゃひゃ」 『ぐふふふふふ』  琴《こと》梨《り》とかいう女が羊オバケを抱えて一緒になって笑っている。他《ほか》の三人はと見ると、脳天気そうなスマイル娘の横に隠れるようにして、ひっつめ髪のちっちゃい子が怯《おび》える顔を覗《のぞ》かせていて、人形みたいな無口な娘は黙《だま》って湯飲みを見つめている。  ──変な連中、と李《り》里《り》は思った。 [#ここから7字下げ] ◎ ◎ ◎ [#ここで字下げ終わり]  一《ひと》悶《もん》着《ちゃく》あったものの、李里は元は祖父の部屋で今は兄の使っている和室に荷物を運び込んだ。  李里にしてみれば本当に秀《ひで》明《あき》と枕《まくら》を並べて寝てもよかったのだが、巴《ともえ》が強硬に反対したため、彼女の兄はリビングを仮の寝《ね》床《どこ》にすることに決定された。  部屋の扉を閉めて李里は嘆《たん》息《そく》する。やっと変な女たちと離《はな》れることができた。深く息を吸うと、嗅《か》ぎ慣《な》れた家族の匂《にお》いがした。  そのまま感傷に浸っていたい気もしたが、 『あらためましてようこそ! と言いたい気分の私、ガニメーデスです! 私もまたこの部屋を拠点としておりまして、ええ! 李里さん、しばらくよろしくお願《ねが》いします!』  足もとにまとわりつく羊のぬいぐるみが喚《わめ》いている。李里はすとんと腰を下ろすと、秀明がガニメデと呼んでいた物体を持ち上げて顔の前に運んだ。 「ねえ、あんた。ずっとお兄ちゃんとあの女たちを見てたんでしょ?」 『それはもう! バッチリ盗《とう》撮《さつ》……いえ、監《かん》視《し》しておりました!』 「お兄ちゃんさ、五人のうちの誰《だれ》かとその、付き合ってんの? まさかとは思うんだけど」 『ほうほう』  ガニメデは両目をクルクルと回して、 『やはり気になりますか。私は妹が実の兄を思《し》慕《ぼ》する心意気に非常なる興《きょう》味《み》を持っています。李《り》里《り》さんも秀《ひで》明《あき》さんが気になるお年《とし》頃《ごろ》なんでしょうな』 「違う! 単に気になるだけよ。どうなの?」 『あなたの第一印象をお訊《き》きしたいですね。誰と一番くっついていそうだと思います?』 「そうねえ……」  李里は五人の少女と兄の顔を思い浮かべながら考えた。  ◎・お嬢《じょう》さまみたいなやつ。  ○・天然っぽい娘。  △・元気そうなの。  ▲・無表情女。  ×・キョドってる子。 「こんな感じじゃない?」 『だいたい合ってるんじゃないかと思いますが、なにしろ秀明さんがあの通りでしてね、私ももどかしい限りです』 「じゃあ、本当にお兄ちゃんはなんにもしてないのね。あんな子たちが五人もいるのに」 『まったく、私は落胆の連続でしたよ。美しい少女たちのいとけない姿を前にして、秀明さん、あなたは何をしておるのかと!』  まあ、お兄ちゃんなら何もしないかもね、と思いつつ、李里はガニメデを放りだした。ころころと転がる羊オバケは、一心不乱に秀明への下《げ》世《せ》話《わ》な不平不満を発しているが、おかげで李里はほんの少し安心した。  一年ぶりに会った彼女の兄は、どうやら全然変わっていないようだったから。 [#ここから7字下げ] ◎ ◎ ◎ [#ここで字下げ終わり]  もちろん変わったところもある。秀明は料理の腕前が上達していた。  実家にいた頃はろくに包丁だって握らなかったはずなのに、今ではすっかりお手伝いさんになっている。  李里の独白に溜《ため》息《いき》が混じる。 「なにやってんだか……」  屋《や》敷《しき》にやって来てから、三日が経《た》っていた。  その聞、彼女を呆《あき》れさせたことに、五人の少女たちは他《ほか》の家事はともかく料埋の役にはほとんど立っていなかった。インゲンのヘタ取りとかジャガイモの皮むきとかを黙《もく》々《もく》とする凌央《りょう》はまだいい。あろえと埜《の》々《の》香《か》は手伝おうとしてかえって失敗することのほうが多く、琴《こと》梨《り》は最初だけは仕事をするものの目をそらしたスキにいなくなる。  が、最悪なのが巴《ともえ》だ。だって何もしないんだもの。  ──なのに、どうしてあんなに偉そうなの?  李《り》里《り》は秀《ひで》明《あき》の横に立って、手《て》際《ぎわ》よく調《ちょう》理《り》を手伝いながらテーブルを振り向いた。  巴は顔を隠すように新聞を広げて読んでいる。そのままじいっと見ていると、巴はちらりと顔を覗《のぞ》かせて厨《ちゅう》房《ぼう》をうかがい、李里と視《し》線《せん》が合うと、さっとまた顔を隠した。表情に忸《じく》怩《じ》たる思いが滲《にじ》んでいるのを見て取って、李里はちょっと気が晴れる。  ガニメデから料理がヘタだとは聞いていた。きっと内心では手伝いたいけど手伝えないという葛《かっ》藤《とう》が渦巻いているのだろう。でも、そんなのはイイワケ。やんないやつはダメよ。  この三日間で李里に解《わか》ったことがある。お兄ちゃんはいつものお兄ちゃんだ。でも、この娘たちはどうなんだろ。羊オバケは勝手なこと喋《しゃべ》ってたけど、五人の本心は聞いてみないと解らない。なら、聞くことにしよう。 [#ここから7字下げ] ◎ ◎ ◎ [#ここで字下げ終わり]  兄とは違って李里は行動派だった。疑問に思ったことは自らの手で解明しないと気がすまない。少なくとも疑問を放置することは彼女の性格が許さなかった。  というわけで、その夜。  それぞれが自室に引っ込んだ時間を見計らい、李里は屋《や》敷《しき》の廊下を忍び足で歩いていた。  最初に目指したのは埜々香の部屋だ。なぜなら一番早く眠りにつきそうだったから。  ネームプレートを確《かく》認《にん》し、小さく慎重にノックする。 「はうっ……」  怪《け》訝《げん》そうにドアを開けた埜々香は、李里の姿を見て即座に失神しそうな顔をした。かまわず部屋に侵入し、素早く扉を閉める。 「ちょっと訊《き》きたいんだけど」  埜々香はいびつな犬のぬいぐるみを抱きしめて、顔を青ざめさせていた。 「ね、あなた、お兄ちゃんのことどう思ってんの? 教えてくんない?」 「あ、おに……? あわわ、その……」  半泣きになっていた。李里は逃げまくる埜々香の視線を先回りして、おどついた目を覗き込み、 「そんなビビんなくても何もしやしないわ。あんた、お兄ちゃんにもそんな態度なの?」  埜々香は少し驚《おどろ》いた顔をして、 「ち、ちが……。あ、わた、わた」  ヘタな刺《し》繍《しゅう》で額《ひたい》に星マークをかたどっているという、変な犬のぬいぐるみをぎゅっと抱いた。 「……その、だいじょう、……す」  もう少し突っ込んで尋ねたかったが、このわずか二言三言で埜《の》々《の》香《か》は限界の模様である。涙目になって首をぐらぐらさせているし、ちょいとつつけばそのまま倒れそうだった。 「ふうん?」  可愛《かわい》いじゃん。  揺れる頭を見て李《り》里《り》は単純に思った。庇《ひ》護《ご》欲《よく》をつんつんされている感じ。ぬいぐるみみたいに抱きしめてやりたい。 「おじゃましたわ。急に来てごめんね」 「え……あ……。は、はい……」  うつむきながら李里を見上げ、埜々香はポカンと口を開けてぎこちなくうなずいた。  李里はさっさと部屋から出ると、次の部屋を目指して歩く。静かに。  今度はあの無口女だ。どんな子なのか一番わかんない。あたしと同《おな》い年? あれで?  李里は凌央《りょう》の部屋の前に立ち、こつこつとノックする。何度か繰《く》り返さなければならなかった。まったく返答がない。ドアの隙《すき》間《ま》から明かりが漏れてるから、中にいるのは確《たし》かなのに、耳をくっつけてみてもまるで気《け》配《はい》も感じられない。  業《こう》を煮やして勝手にドアを開けてやる。 「…………」  凌央は部屋の真ん中で、なぜか正座をしてじっと固まっていた。 「返事くらいしなさいよ」  部屋に踏み込んだ李里は、凌央の前に置かれている半紙と硯《すずり》、筆に目をやった。きちんと背を伸ばして膝《ひざ》を揃《そろ》えていた凌央が、するりと腕を伸ばして筆を持っ。何をするのかと見ていたら、凌央は筆に墨《すみ》を含ませるとすらすらと半紙に四《よん》文《も》字《じ》熟《じゅく》語《ご》を書いた。そしてまた筆を置き、半紙を両手でもって李里に見せつけるように掲げた。 �良《りょう》妻《さい》賢《けん》母《ぼ》�と書いてある。 「なに、それ?」  凌央は答えず、新しい半紙に筆を走らせ、�心配無用�と書いて李里に見せた。李里が意味をつかめず首をひねっていると、凌央は黙《だま》って元の正座スタイルに戻り、それきりぴくりともしなくなった。李里が何を言っても無反応で、ひょっとしたら座って目を開けたまま寝ているのかもしれない。  ついに李里はあきらめた。まったく問題外だ。話になるならない以前の話だわ、これ。  次はもうちょっとマシだろう。あろえとかいう娘。一番まともそうだったし。 「あ、李里ちゃん」  ノックに応じたあろえは、嬉《うれ》しそうに李《り》里《り》を自室に招き入れ、 「どうしたの? あ、今ね、ぬいぐるみを編《あ》んでたとこなんだよ。ほら」  なるほど、と李里は得《とく》心《しん》する。埜《の》々《の》香《か》って子が持ってたやつもこの子が作ったわけね。  作りかけの、たぶんネズミのぬいぐるみ。上手《じょうず》とは言えないけど妙な味のあるデザインだ。 「ねえ、お兄ちゃんとは、」 「ひーくん? いいよねー。すっごい物知りなんだよね。うん、そうだ。見て見て」  あろえはいきなり植物|図《ず》鑑《かん》を持ってくると、付《ふ》箋《せん》のついたページを開いて指差した。 「この前ね、この草の名前が解《わか》んなくて一《いっ》生《しょう》懸《けん》命《めい》調《しら》べてたんだけど、やっぱり解んなくて、そしたらひーくんが教えてくれたんだよ」  どう見てもタンポポだった。ただし白い。 「シロバナタンポポ。タンポポって黄《き》色《いろ》いもんだと思ってたからビックリビックリだよ」 「だから、お兄ちゃんとはどういう、」 「ひーくんの作るご飯、おいしくていいよねー。ねこにゃんたちも大喜びだよ。あたしもちょっと太った気がするよ」  あろえはどこまでもニコニコと李里に笑顔《えがお》だけを向けていた。毒気の抜かれる笑《え》みである。勢い込んできた自分がバカみたいに思えてくる。  しきりに話しかけてくるあろえに別れを告げ、李里は次のターゲットのもとへ行った。 「やあ! 李里!」  出会った初日から琴《こと》梨《り》はすでに彼女を呼び捨てにしている。 「どうしたんだい? あ、解った! あたしたちがひーくんをどう思ってんのか尋ねて歩いてんだねっ」  何で解るの? と思いつつ李里は琴梨と対《たい》峙《じ》した。  いいわ。解ってんなら話は早い。 「どうなのよ?」 「そんなの、あたしたちよりひーくんに訊《き》いたほうがいいんじゃないかなっ」  琴梨はベッドに胡座《あぐら》をかいて、 「大切なお兄ちゃんを気にする妹の気持ちは解るよ。ひーくんちょっぴり格好いいしね。でも、ありゃダメだっ! 放っておいたら百年|経《た》ってもあのままだよっ。そろそろこっちから夜《よ》這《ば》いでもしようかと思ってたところさ! そんくらいしないとどうにもなんないよっ」  本気ではなさそうだ。琴梨はからかう顔で笑っている。面《おも》白《しろ》くない。特に大切なお兄ちゃん、というところ。  冷静に考えてみると、まるで自分はブラコンの妹みたいに振《ふ》る舞《ま》っている。そんなんじゃないのに。 「ご苦労さん! 次は巴《ともえ》んとこかい? うひひひ、あたしもついていきたいなあっ」  当然断った。李《り》里《り》は琴《こと》梨《り》のケラケラ顔から逃れ、最後にとっておいた本命のところへ脚を進める。  佐《さ》々《さ》巴《ともえ》。もしお兄ちゃんがあの子を連れてきて彼女だと紹介したりしたら、一《いっ》瞬《しゅん》で嫌いになれる自信がある。偉そうで、そのくせに何もしないで、でも美人。許せん。  臨《りん》戦《せん》態勢を整《ととの》え終え、李里は以前は自分が愛用していた部屋の前に立った。  そしてノックをしようと手を挙げたとき──。  警《けい》報《ほう》が鳴《な》り響《ひび》いた。  それを李里が聞くのは初めてである。突然の大音量アラームに驚《おどろ》くあまり、反射的に身体《からだ》が固まったのも仕方がない。ドアが勢いよく開いて李里の顔面にぶつかったのも、これまた双方どちらの責任でもない。 「EOSですわ! みんな、早──って?」  巴は鼻を押さえてしゃがみ込む李里に目を見張った。 「そんなところで何をしておいでです?」  痛みをこらえつつ李里は立ち上がり、 「……何でもないわよ。それよりこのやかましい音のほうが何、って感じだわ」 「そうでしたわね」  巴が真剣な顔を取り戻す。ほぼ同時に、他《ほか》の部屋から飛び出してきた人《ひと》影《かげ》が、 「やっほう! さあ、行こう!」  琴梨が叫び、ついであろえがおっとりと部屋から顔を出して、 「ののちゃん、凌央《りょう》ちゃん。起きてるー?」 「あたしが連れてくるよっ」  疾《しっ》風《ぷう》のように琴梨は二つの部屋に向かい、出てきたときには両《りょう》脇《わき》に埜《の》々《の》香《か》と凌央を抱えていた。  巴が走り出し、一歩遅れて李里も走った。 「どこ行くのよっ!?」 「決まってんじゃんっ」  先頭を行く琴梨が振り向いて答えた。 「世界を救いにいくのさっ!」 [#ここから7字下げ] ◎ ◎ ◎ [#ここで字下げ終わり]  この家に来たとき、あの羊オバケが言っていたことは本当だったみたい。  警報が鳴り続ける中、五人の少女たちは地下室で普《ふ》段《だん》着《ぎ》にはなりそうにないコスチュームに着替えると、手にスケボーやらリコーダーやらを持って駆け上がり、外で待っていたオープンカーに走り寄った。運転席には秀《ひで》明《あき》がすでに着いてて、なんだか当然の顔をして巴が隣《となり》に座る。他《ほか》の四人で後部座席はすし詰めだったが李《り》里《り》も強引に乗り込んで、思う。  なによ、この変な服。まるで本当に正義の味方みたいじゃないの。 「ふんっ」  こうなったらどこまでもついていく。一人で待ちぼうけなんかゴメンだわ。 「わあ、狭い。ちょっとムリムリだよ」  あろえが楽しそうに身体《からだ》を縮《ちぢ》め、琴《こと》梨《り》と凌央《りょう》の間に挟まれた埜《の》々《の》香《か》が「きゅう」と声を漏らした。 『完全に定員オーバーです』  ダッシュボード上でガニメーデスが告げる。 『最低|誰《だれ》か一人がトランクに入らねばなりませんな。埜々香さんなら入り慣《な》れているかと』 「やめとこう」  秀《ひで》明《あき》が言った。 「埜々香、前に来たらいい。僕か巴《ともえ》の膝《ひざ》の上なら乗れるだろ」  すでに車は走り出していた。走行中の車内で埜々香は全員の手を借りて巴と助手席を分け合う位置に移動する。巴の要望だった。  夜の町内を走ること十分、全員の乗った車は川沿いの道に出た。さらに道を乗り越えて河《か》川《せん》敷《じき》でタイヤを軋《きし》ませ、止まる。 「あれがEOSってやつなの? なんて……」  李《り》里《り》は目を疑いたくなる。でっかくてヘンテコな物体が中《なか》州《す》にうずくまっていた。 「魚? 提《ちょう》灯《ちん》アンコウに見えるけど……」 「形は毎回違うんだ」  兄が意外なほど真剣な声で説明、 「今回は魚型みたいだな」  額《ひたい》から生《は》えているヒゲみたいなものが三本あるのは異質だが、いかにもそれは巨大な提灯アンコウだ。 「ガニメデ、<<核>>は?」と秀《ひで》明《あき》。 『本体中央部に反応があります。外側から破《は》壊《かい》するのは手間ですね。ですがあのEOSは魚類に擬《ぎ》しています。あの口に見える部分を開けさせれば、内部で回転しているのが見えると思われます』  李里が見ていると、五人の娘は車から降りて魚のバケモノに向かっていった。巴《ともえ》は真《ま》面《じ》目《め》に、琴《こと》梨《り》とあろえは笑顔《えがお》で、埜《の》々《の》香《か》はびくびく、凌央《りょう》は沈《ちん》黙《もく》中《ちゅう》。全員が燐《りん》光《こう》を帯びる。  李里は後部座席から頭を出して、その光景を見た。EOS頭部のヒゲがゆらゆらと揺れている。──と、その一本が突《とつ》如《じょ》として五人に向かって奔《はし》った。 「逃げろ!」  秀明が鋭《えい》利《り》な声で指示、少女たちは実行する。しかし一人が脚をもつれさせて転倒、 「……わわーっ?」  直後、埜々香がEOSのヒゲ状触手につかまれて空中に持ち上げられた。 「こらあ!」  巴は竹刀《しない》を振り上げて魚EOSに突進した。浅《あさ》瀬《せ》の水面を蹴《け》りつけながら、 「埜々香を返しなさい!」  EOSの鼻《はな》面《づら》を竹刀でぺちぺちと叩《たた》くが、相手側はぶらさげた埜々香を離《はな》さない。 「琴梨、埜々香を助けてくれ。あろえはEOSを足止めできそうなものなら何でもいい、急いで描《か》いて、巴、お前の剣でEOSの口を開けられないか?」  秀明の早口に応じたのは巴だった。 「やってみますが、……きゃっ」  残り二本の触手が巴を襲《おそ》った。とっさに跳んで逃げた巴をさらに追跡、その触手を巴は竹刀で受けながら後退して、 「これでは近づけませんわ!」  秀明は考え込むように顎《あご》に指を当てた。 「琴梨は埜々香の救出を急いでくれ。あろえ、まだか?」 「もうちょいだよー」  あろえは地面に置いたスケッチブックにせっせと鉛筆で何か絵を描《か》いていた。その手が止まると同時に、発光したスケッチブックが光に包まれながらムクムクと巨大化、次いで変形していった。李《り》里《り》は思わず、 「わっ、新しいバケモノがっ!?」 「違うよ、イカくんだよ」  あろえ的にはイカなのだろうが、李里の目には提《ちょう》灯《ちん》アンコウよりももっとバケモノに見える。イカより火星人と表規したほうが近い。  青白く光るあろえイカは、無数の腕をくねらせながらEOSににじり寄っていく。 「まるで怪《かい》獣《じゅう》映画ね」と李里は感想を述べる。  アンコウ型EOSが巨大イカに向き直った。 「いえーいっ!」  その隙《すき》に琴《こと》梨《り》がスケボーごと飛び上がった。EOSの触手につかまれて宙を舞《ま》っていた埜《の》々《の》香《か》を奪い返し、 「どわーっ」「ひえー」  二人してそのまま川に落ちた。どぼーん、と水しぶきが上がり、秀《ひで》明《あき》の指示が飛んだ。 「巴《ともえ》、今だ。EOSがイカを相手している間に奴《やつ》の口を開かせてくれ」 「簡《かん》単《たん》におっしゃいますこと」  それでも巴は構えた竹刀《しない》に向けて思念を集中させ始める。EOSの三本の触手がより合わさって太い一本へと変化、あろえイカの横《よこ》面《つら》を強烈に殴打した。あっさり吹き飛ぶイカ。だが、巴の一《いち》撃《げき》が入るには充分な隙ができた。  李里にはよく聞こえなかった。巴は意味のない早口言葉みたいなセリフを叫びつつ、深海魚の横長な口に向かって突進、渾《こん》身《しん》の力で突きを見《み》舞《ま》う。輝《かがや》く竹刀が鍔《つば》までめり込んだ。 「この、このっ!」  巴は歯を食いしばって強引に竹刀を立てた。それがつっかい棒となってEOSの口がパックりと開く。李里にも見えた。喉《のど》の奥で不気味な色の円《えん》盤《ばん》が回転している。  秀明の平静な声が言う。 「凌央《りょう》、頼む」  その言葉だけで充分だったらしい。それまで他《ほか》の四人の戦《せん》闘《とう》を黙《だま》って見つめていた凌央が、すっと片腕を上げた。握られた毛筆が空中に光の文字を書く。 �電光石火�  一《いっ》瞬《しゅん》後、光る四文字が一筋の稲《いな》妻《ずま》となってEOSの口内に吸い込まれ、円盤が砕《くだ》けた。  その途《と》端《たん》、巨大な魚は暗いピンク色の光を放ちながらボロボロと崩れていく。  ふうっ、と息を吐いて秀明がシートにもたれ掛かった。  李里の目はまだ丸い。視《し》線《せん》の先に、妙なコスプレした五人の引き上げてくる姿がある。琴梨と埜《の》々《の》香《か》はずぶ濡《ぬ》れ、あろえはスキップで、黙《だま》って立っている凌央《りょう》の手を途中で引いた。竹刀《しない》を携えて戻《もど》ってきた巴《ともえ》の生《き》真《ま》面《じ》目《め》な表情は、なぜかどこか神《こう》々《ごう》しい。 「お疲れ」  秀《ひで》明《あき》が声をかけ、巴はうなずいた。 「まったくですわ」  慣《な》れた仕《し》草《ぐさ》で助手席に乗り込んで、 「では、帰りましょう。急がないと埜々香が風邪《かぜ》を引いてしまいます」  目を回している埜々香は秀明の膝《ひざ》の上に乗せられた。何とか全員がシートに収まったのを見越して、車がエンジンを始動させた、 [#ここから7字下げ] ◎ ◎ ◎ [#ここで字下げ終わり]  さて──。  館《やかた》への帰り道、後部座席の端っこでドアに押しつけられながら、李《り》里《り》は考えていた。最初に五人の女の子たちを見てから、そしてこの三日間、どうして自分は奇妙なイラだちを感じていたのか。この子たちの何が気に入らなかったのだろうか。  李里は聞こえないように呟《つぶや》いた。 「そっか」  今なら解《わか》るような気がする。  イライラの原因はこの五人のせいじゃないんだわ。あたしはお兄ちゃんのことなんか特に好きでも嫌いでもないし、生まれた時から側《そば》にいる家族の一人ってだけなんだけど──。  この娘《こ》たちは違う。でも、まるで家族みたいにお兄ちゃんを信頼してて、なんだか慕《した》ってもいるみたい。あのお嬢《じょう》さまみたいなのなんて、もうとってもあからさま。  最初はそれが気に入らないのかと自分で思っていた。これってヤキモチ? とか感じて、ちょっと不安になったくらい。 「そうじゃないんだよね」  今は晴れやかな気分だった。ヤキモチだなんて、そんなバカなことないって。  李里は秀明の横顔を盗み見た。  お兄ちゃんが他《ほか》の女の子たちに懐《なつ》かれたり好かれたりするなんてこと、まるで思いつきもしなかった。自分が思うのと違うお兄ちゃんを感じて、あたしはイラついていたみたい。 「どこがいいんだか、わかんないけどねえ」  李里は車内に視《し》線《せん》を一周させた。世界の危《き》機《き》がどうかはともかく、どうやらこの五人もお兄ちゃんもマジでやっているらしい。  こんな恥ずかしい格好してやってんだもん、許してあげるわよ。  何をどう許すのかは李里自身にも解らないし、彼女の許可なんか誰《だれ》も求めていないだろうが、何となくそんな気分になったのだった。 [#ここから7字下げ] ◎ ◎ ◎ [#ここで字下げ終わり]  次の日の朝。  荷物をまとめ終えた李《り》里《り》は、兄に宣言した。 「家に帰るわ」 「そうか」  秀《ひで》明《あき》はホッとしたようにうなずいて、 「父さんと母さんによろしくな。ああ、それからこの子たちと爺《じい》さんのことは内《ない》緒《しょ》にしておいて欲しいんだけど……」 「解《わか》ってるわよ」  靴を履《は》きながら李里は心配げな兄の顔を見つめる。彼女を見送りに全員が集まっていた。あろえは本気で名残《なごり》惜《お》しそうに、 「李里ちゃん、また来てねー」 「そりゃ来るわよ。ここはあたしのお爺ちゃん家《ち》なんだしね」  立ち上がった李里は一同を見回した。多彩な表情が揃《そろ》っている。笑顔《えがお》なのはあろえと琴《こと》梨《り》、凌央《りょう》は表情なく、埜《の》々《の》香《か》はオドオド、ガニメデはレンズをぐるぐる回していて、そして巴《ともえ》は会ったときと同じ、複雑な顔つき。  ちょっとしたイタズラを思いついた。  李里は、ことさらにニッコリ微笑《ほほえ》んで、 「ねえ、こん中で誰《だれ》が一番お兄ちゃんを好きなの?」 「なっ……!?」  目を剥《む》いた巴と秀明以外の全員の手が、息を合わせたように、まっすぐ巴を指差した。 「なな何です! 何を言うのですあなたは!」 「じゃあね」  にんまりしながら李里はさっとドアを開け、素早《すばや》く外に出た。閉めたドアの内側から楽しそうな声と甲《かん》高《だか》い声が混ざって聞こえる。  兄の顔を思い出して李里は吹き出した。軽い足取りで敷《しき》地《ち》を出て、坂道を下り始める。  ──最後に見たお兄ちゃんのあの顔、驚《おどろ》きながらやっと何かに気づいた顔をしてた。 「鈍《にぶ》いダメ兄貴」  にやつきながら歩く李里だった。  しかし、そのすぐ後、上《じょう》機《き》嫌《げん》に動いていた彼女の足は坂の中ほどで止まることになった。  坂道を誰かが上がってくる。春先の水彩画めいた風景の中で、それだけが妙に黒っぽい。  ──女の子? でも、あれって……?  微《そよ》風《かぜ》のように接近したその少女は、李《り》里《り》の姿をまったく目にとめずに静かに横を通り過ぎた。妙な気《け》配《はい》を感じて振り返ると──、 「あれっ? え?」  誰《だれ》もいない。坂の途中にいるのは自分だけだ。李里は目を閉じて頭を振った。おかしいな、見間違い? 蜃《しん》気《き》楼《ろう》じゃないわよねえ? 「確《たし》かにすれ違ったはずだし……それに……」  ──館《やかた》にいた全然|喋《しゃべ》らない娘、凌央《りょう》って子にそっくりだったような……。でも髪も服も真っ黒で、まるで違う服を着た色違いの双《ふた》子《ご》みたいだったけど……。  李里は首を傾《かし》げ、そのまま坂を下るか引き返すか迷った。だが、そんな迷いを一《いっ》瞬《しゅん》で消し飛ばすようなことが、やがて起こる。  凄《すさ》まじい爆《ばく》音《おん》が坂の頂上から轟《とどろ》いた。 「ええっ!?」  李里は見た。自分が出てきたばかりの家、彼女が今までいた祖父の屋《や》敷《しき》から爆炎が立ち上っている光景を。  そしてその爆炎の中に、彼女にも見覚えのある不気味な光が見え隠れしているのを。  EOSと説明された怪物が放っていた輝《かがや》き、それと同じものが、李里の目に確かに映った。 [#改ページ] 第十話『ラストスプリング・アゲイン』  坂を下りていた李《り》里《り》が妙な少女とすれ違い、館《やかた》から噴《ふ》き上がる爆《ばく》炎《えん》を見た──。  その少し前のことになる。  僕はその時、屋《や》敷《しき》の廊下でただ唖《あ》然《ぜん》と立っていた。  蜂《はち》の巣をつついたというか、つつかれたのは一人だけだったわけだけど、間接的に針を刺されたのは僕も同じようなものだった。  巴《ともえ》は弾《はじ》かれたように飛び上がって、 「なな、なんですかっ!? いつまで指を突きつけているんですかあなたたちは! 下ろしなさいすぐ下ろしなさい、もうっ! わたしが何をしたというのです!?」  李里が出て行ってからしばらくの間、なんというか、もう大《おお》騒《さわ》ぎだった。巴は他《ほか》の四人の手をバタバタと叩《たた》いて回ったが、それで手を引っ込めたのは、いち早く怯《おび》えモードに入った埜《の》々《の》香《か》だけだ。  琴《こと》梨《り》はさっと巴《ともえ》の攻《こう》撃《げき》をかわすと、 「にゃははっ。李《り》里《り》ちゃんも最後にいいこと言ってくれるじゃんっ。これでハッキリしたさ、巴! 観《かん》念《ねん》して素直になっちゃいな!」  琴梨は招き猫のようなポーズで両手を頭の横にあて、人差し指で巴を示している。示されたほうはと言えば、 「わたしは生まれてからずっとこの上なく素直な人間ですっ! 観念することなどわたしの人生においてありませんっ」  顔をイチゴのように赤らめ、巴は琴梨に飛びつこうとぴょんぴょんするが、さすがは運動神経抜群な琴梨、華《か》麗《れい》なステップでひらりとかわし、ぶつかるような勢いで僕の横にやってきた。 「ほらほら、ひーくん! ひーくんも何か言うことあるんじゃないかなっ! 巴にいい感じのコメントをよろしくっ」  マイクを握るフリの琴梨に、僕はとにもかくにも面食らう。 「いやぁ……」  何と言っていいものだろう。  李里のやつ……、とんでもない爆《ばく》弾《だん》を置いていきやがって。少しは、なんだ、ちょっとこう……、時と場所とセリフを選んで欲しかった。  ふと気づくと、あろえと埜々香が興《きょう》味《み》津《しん》々《しん》な眼《まな》差《ざ》しで僕と巴を見ている。 「えへぇ?」  と、あろえは嬉《うれ》しそうに。 「あわわー」  と、埜々香はまじまじと。 「…………」  凌央《りょう》までがいつもの動かない目で僕を注目しているようで、何だが全然落ち着かない。  それで巴は、どこで何をしているかと見てみると、 「お放しなさい! 放してっ」  逃げ出そうとする首根っこを琴梨の手に捕われてジタバタしていた。 「うーん……」  どうやら僕が何かを言わないと事態は収まりそうにないようだ。でも、何を言えばいいんだろう。  頭によぎるのは、僕がここに来て以来の巴の振《ふ》る舞《ま》いばかりだった。  時には自然な、時には不自然な巴の行動。眼鏡《めがね》をかけたりかけなかったり、過剰に怒ってみたり、ふとした拍子に正直な表情になったりした男嫌いの少女。  ラブレターをもらった日の奇妙な反応、そして、あの観《かん》覧《らん》車《しゃ》の中で夢を語った時の素直な笑顔《えがお》。 『私が散《さん》々《ざん》忠告していた意味が解《わか》りましたか』  ガニメデが足《あし》もとでふんぞり返っていた。 『とにかく鈍《にぶ》い。もう鈍い。何度も言ったではありませんか、この朴《ぼく》念《ねん》仁《じん》! 秀《ひで》明《あき》さん、今こそ行動に移すときです。ただし、するのは最《も》早《はや》一名のみに限られてしまいました。どうです? 後悔しきりでしょう?』  僕はぼんやりと言い返す。 「何の後悔を僕がするって?」 『美しく麗《うるわ》しい少女五人と一年近く同じ家に住みながら私の目を楽しませてくれるようなイベントを目白押しに起こさなかったという後悔に決まっているではありませんか!』 「そんなこと言われても……」 『ああ、なんということか! もし私があなたの立場なら、今《いま》頃《ごろ》ウハウハな青春を送りつつ万《ばん》歳《ざい》三《さん》唱《しょう》していることでしょう! それなのにあなたと言えば、おとなしく料理しているか勉強をみてあげるか……。どこの優《ゆう》等《とう》生《せい》ですか』  いつもなら蹴《け》飛《と》ばすところだが、僕はあてどもなく視《し》線《せん》をさまよわせた。いつもと変わらない風景、そこには五人の女の子たちがいて、すっかり見《み》慣《な》れた顔で立っている。  ただ、わあわあ言いながら琴《こと》梨《り》の手を引きはがそうとしている巴《ともえ》だけは、僕から顔を背《そむ》けているのでよく解《わか》らない。トウガラシ色に染まった耳が長い髪の隙《すき》間《ま》から見えるだけだった。 「ええと……」  とりあえず呟《つぶや》いてみた。我ながら全然意味のない呟きで、黙《だま》っているのもどうかと思ったわけなだけだが、次に発する言葉などすぐに思いつかない。思い出したのは、偽《にせ》デートの時に繋《つな》いだ巴の手の柔らかさだけだった。 「おやおやっ、ひーくん!」  琴梨は凄《すさ》まじく明るく、 「なんか顔赤いよっ! うひひ、あたしもひーくんなら巴をあげちゃっていいさ。この幸せもんっ!」 「わっ、わたしはあなたの持ち物ではありません!」  巴はなおもジタバタを続けている。 「それに……それに……これは誤解……いえ、間違い……いえ、勘違い……でもなく、とにかく放すのです、琴梨!」  琴梨は片手で巴を捕まえながら、もう片方の腕を僕の手に絡《から》めてきた。これで逃げられないのは僕も同じだ。 「さすがはひーくんの妹さんだ! すぐに見抜いちゃうなんてねっ。でもまあ、誰《だれ》が見てもバッレバレだったよね!」 『まったくですなあ』  ガニメデが溜《ため》息《いき》みたいな声で、 『ですから、バレないうちに色々すべきことがあったというのに、本当に呆《あき》れも果ても尽き果てるとはこのことです。ねえ、あろえさん、あなたもそう思うでしょう?』 「えー?」  あろえは笑顔《えがお》を斜めに傾けて、 「何がー? 巴《ともえ》ちゃんがひーくん好きだってこと? あたしも好きだよ。どっちも好き」  そう言って、埜《の》々《の》香《か》の顔を覗《のぞ》き込んだ。 「ののちゃんは? ひーくん、好き?」 「う……あ……その……」  埜々香はオドオドとあろえを見上げ、次に巴を見て、慌てたようにあろえの背後に回って身を隠した。 「うふうふ」  と、あろえはほがらかに笑った。 「ほらほら巴、ぐずぐずしてるとひーくん取られちゃうよっ。なんならあたしが横からかっさらうしさっ」  琴《こと》梨《り》はますます調《ちょう》子《し》よく笑い、ガニメデは、 『いいですな。まあ、あろえさんの言う好きはちょっと違う意味でのように思いますが』  僕は今《いま》頃《ごろ》鼻歌を奏《かな》でながら歩いているだろう、李《り》里《り》の姿を思い描いて小さな溜息をついた。引っかき回すだけ引っかき回して退散しやがって、我が妹ながら何てやつだ。戻ってきてこの場をどうにかして欲しい。今なら誰《だれ》が来て何を言おうがまったくかまいやしない。これ以上こんがらがることはないだろう。  ──と、その時だった。  何の前触れもなかった。ノックもチャイムもガニメデの警《けい》告《こく》もなかった。  メリメリと音を立て、玄関の扉が引き裂かれるようにして開いた。  まるでドアの存在をそれまで知らなかった者が無理やり開けたような、ノブや鍵《かぎ》など知らないとでも言うような、そんな強引さで。 「えっ?」  その声は全員のものだ。正《せい》確《かく》には凌央《りょう》を除いた六人分の驚《おどろ》きの声。  凌央だけが驚いていない。それはいつものことだった。しかし無表情な凌央の瞳《ひとみ》は、いつもよりさらに冴《さ》えているように思えた。 「…………」  凌央はドアを壊《こわ》して現れた黒い人《ひと》影《かげ》をじっと見つめていた。そして、彼女に見つめられている侵入者もまた── 「凌央《りょう》?」  そこに、凌央にそっくりの少女が立っていた。髪型と色、まとう衣装は違う。そっちの凌央は黒を基《き》調《ちょう》にしている。しかし、白くて無感情な顔は、僕が毎日合わせていた凌央のものと寸分と違わない。 「あれ、あれれ?」  あろえが目を見開いて二人を見比べた。 「凌央ちゃんが二人? えー? あ、凌央ちゃんのお姉さんか妹さん?」 「…………」  どちらの凌央も答えなかった。新たに登場した黒っぽい凌央は、瞬《まばた》きもせずに敷《しき》居《い》の外で突っ立っている。その黒い瞳《ひとみ》は一《いっ》直《ちょく》線《せん》に凌央を見据えていた。 『おかしいですよ、秀《ひで》明《あき》さん』  ガニメデが珍しく呆《ぼう》然《ぜん》とした音《おん》調《ちょう》で言った。 『館《やかた》の外部|監《かん》視《し》システムに反応がありませんでした。誰《だれ》であろうと敷地内に人ってきた者を私が見落とすわけがありません』  どういうことかと聞き返す前に、 『この凌央さんそっくりのかたは、突然そこに現れたのです! 瞬《しゅん》間《かん》移動してきたとしか思えません!』  全員が身体《からだ》を固まらせていた。さすがの琴《こと》梨《り》も大口を開けて黒い凌央を見つめ、巴《ともえ》も言葉を失っている。  沈《ちん》黙《もく》の中、その凌央でない黒凌央が口を開いた。 「もうよいか」  その謎《なぞ》めいた問いかけに反応したのは、僕たちがよく知るほうの凌央だった。 「まだ」  凌央は短く言い、冷たい目を同じ顔の少女に向けた。黒凌央は表情を変えず、 「もうよいはずだ」 「まだ」  凌央は繰り返し、黒凌央は冷えた声で応じた。 「集《しゅう》積《せき》されたデータは規定量に達している。お前の任務は完了した」 「でも、まだ」 「待つ必要は最《も》早《はや》ない」  黒凌央が片手を挙げた。手のひらを僕たちに見せつけるように指を開く。 「強制執行を開始する」  かざした手のひらの中心に光がともった。見たことのある輝《かがや》きだ。蛍光色のピンク色。マぜンタの光は、それは……。  館《やかた》の全スピーカーから警《けい》報《ほう》が鳴《な》り響《ひび》いた。ガニメデが飛び上がって叫ぶ。 『EOSの反応を感知しました! 場所はここ、館内部、我々の現在位置と一致します!』  誰《だれ》も動けなかった。目の前の光景に目を奪われていたことと、そんな時間など全然なかったからだ。 『桁《けた》外《はず》れです! これまでのEOSとまったく違う、エネルギーレベル観《かん》測《そく》不能!』  黒い凌央《りょう》の伸ばされた手の中で、不《ふ》穏《おん》な輝《かがや》きは瞬《しゅん》時《じ》に拡大した。僕にすら感じられる。とてつもないエネルギーがそこに収《しゅう》斂《れん》していって、そして。  僕たちの暮らしていた爺《じい》さんの屋《や》敷《しき》。  五人の娘たちと時には騒《さわ》がしく、時には安《あん》穏《のん》と過ごしていた居住スペースが──。  跡形もなく吹き飛んだ。  ピンク色の爆《ばく》炎《えん》とともに。  至近|距《きょ》離《り》からの攻《こう》撃《げき》、それも完全な無防備状態だ。EOSとの戦《せん》闘《とう》では僕はいつも無防備で、だからこそ離《はな》れたところで彼女たちの戦いぶりを見守るだけだったのだが、今回の場合はその五人も同じ状態だった。戦闘コスチュームに着替えDマニューバを起動するヒマもなく、もちろん例のアイテムを手にしてもいなかった。  当然身を守るすべなんか何一つない。  目の前で放たれた超越的なエネルギー放射によって、一瞬で消滅してもおかしくはなかった。そうならないほうが不《ふ》思《し》議《ぎ》だ。現に館の半分は吹き飛んでいる。だが僕たちは生きていた。茫《ぼう》然《ぜん》と、ただし無傷で。 「…………」  凌央が手を伸ばしていた。いつのまにか僕たちを守るように立ちはだかった凌央が、黒い凌央に向かって片手を挙げ、もう一人の自分に相《あい》対《たい》している。いつどうやってそこに移動したのか、僕にはさっぱり見えなかった。見えたのは凌央の手のひらがマゼンタの光を受け止め、すんでの所で僕たちを救ってくれたということだけだった。  黒い凌央の手がピンク色に瞬《またた》いている。対して凌央の掌は青白い輝《かがや》きをまとっていた。 「なぜだ」  黒凌央が無感動に言った。 「お前は無《む》駄《だ》なことをしている。決定は下された。抵抗に意味はない」 「理解している」  凌央は答えた。ゆっくりとうなずいて、 「決定には従えない」  黒凌央は走査の目を凌央に向けた。 「物質化の弊《へい》害《がい》だ。お前は物質に侵されている。変質が進みすぎた」 「かもしれない」  凌央《りょう》はまたうなずいて、また言った。 「決定には従えない」 『待ってください!』  ガニメデの声で僕の呪《じゅ》縛《ばく》も解けた。慌てて周囲を見回す。他《ほか》の四人も無事だ。埜《の》々《の》香《か》が腰を抜かしたように尻《しり》餅《もち》をついているくらい。あろえは目と口をまん丸くして黒凌央を見つめ、巴《ともえ》は青ざめた顔で琴《こと》梨《り》にすがりついている。琴梨は僕が初めて見る真《ま》面《じ》目《め》な表情で、きつい視《し》線《せん》を黒凌央に送りつけて言った。 「ガー、その娘《こ》、EOSなのかい? EOSがついに人《ひと》型《がた》になってやってきたってとこかな? あ、でもそうなると凌央は……どういうことだっ?」 『私にも理解不能です。そちらの凌央さんモドキが発現させたエネルギーは明らかにEOSのものですが、彼女自身からは反応がありません。ええ、彼女はEOSではない』  そして凌央も。  今、凌央が浮かべている光は明らかにDマニューバ起動時のものだ。しかし凌央は何も装着せず、その力を行使して僕たちを守った。いったい彼女たちは、この二人の凌央は何だというのだろう。 「我らは」  黒い凌央が口を開く。 「お前たちがEOSと呼ぶものの管理者にして利用者」 「何だって?」  僕の問いに、 「我らはここより遥《はる》かな高次に位置するもの。物質とは無《む》縁《えん》の純エネルギー存在だ。お前たちがEOSと呼ぶエネルギー体は、」  黒凌央は適当な語《ご》彙《い》を考えるように、 「お前たちの概念で言えば�燃《ねん》料《りょう》�と呼ぶものに相当する。お前たちは我らの燃料保管庫に穴を開けた」  ガニメデがレンズを高速回転させた。 『穴ですと? もしかして、その穴とやらを開けてしまったからその燃料──EOSがこちらの世界に漏れだしたというわけですか?』  黒凌央は羊のぬいぐるみが話すことにも無関心のようで、 「そうだ。ごく小さな亀《き》裂《れつ》だった。放置してもかまわないほどのものだ」 『では何故《なぜ》、今になって来たのです?』  黒凌央は何かに気づいたようにガニメデを眺めた。その表情が少し変化したような気《け》配《はい》がする。決していいほうにではなかった。 「物質界に流れ落ちたエネルギー体は物質を取り込み、変容させて同種のエネルギーへと変化させる。放っておけば我らの燃《ねん》料《りょう》世界が一つ増える結果となっただろう」 『つまり、この世界がまるごとEOS化するということですね?』 「そうだ。我らはそれでもよかった」 『よくなくなったのですか?』 「人間がいた」  黒《くろ》凌央《りょう》の視《し》線《せん》は僕に向き、順番に四人の少女たちへと移動した。 「物質界に生きる奇妙な生命体だ。その生命体が次元の壁《かべ》を貫いたことに我らは注目した。ありえないことだった。まして、我らの燃料を利用しようとするなど」  思い出したのは去年の正月、爺《じい》さんが組み上げていた変な機《き》械《かい》のことだ。そして爺さんの行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》の原因となった地下室|爆《ばく》発《はつ》。以来、EOSが登場するようになった。つまり、それが亀《き》裂《れつ》を発生させたわけだ。次元の壁を貫通し、こちらに染み出したエネルギー。いわゆるEOS。  僕は呻《うめ》いた。すべての発端はあの時から始まったのだ。 「爺さん……」 「その人間は次元間を自在に漂流している」  黒凌央は消息を伝えてくれた。 「�漂流者�と我らは呼んでいる。目障りな存在だ。我らの燃料を使用可能なものとして変換し、この物質世界のエネルギー化を防御し始めた。調《ちょう》査《さ》のため、我らの一部が派遣された」  黒凌央は、凌央を冷たく見た。 「それが、そこにいる我らの一部だ。状況を走査、報告するための」  凌央は黙《だま》って立っている。うなずきも瞬《まばた》きもしない。  あろえが小さく言った。 「凌央ちゃんが?」 「そういえばっ」と琴《こと》梨《り》。「こん中で一番最初に館《やかた》に呼ばれてたのって凌央だっけ? そいじゃ、博士は最初から知ってたのかい?」  振り返らず、凌央は頭を小さく上下させた。 『私が作られたときには既に凌央さんもおられました。いえ、凌央さんしかいなかったと言うべきでしょう。他《ほか》の方々はその後、博士が集めてきたのです』  いつも無表情でめったに声を出すこともなかった凌央。どことなく人間|離《ばな》れしているとは思っていたが、人間じゃなかったなんて今さら言われても驚《おどろ》きようもない。EOSとの戦《せん》闘《とう》では一番役に立っていたし、言うことだってよくきいてくれた。なにより、ついさっき僕たちを救ったのはこの凌央だった。 「待って欲しいんだけど」  僕は言った。言わずにいられない。 「それで決定ってなんだ? どうして僕たちを吹き飛ばそうとするんだ」  黒《くろ》凌央《りょう》はわずらわしそうに、答えを送り返した。 「我らはこの物質世界の生命体、特に人間の振《ふ》る舞《ま》いに興《きょう》味《み》を抱いていた」 「じゃあ、どうして……」 「我らの一部[#「我らの一部」に傍点]が観《かん》測《そく》し続けていた情報を分析した結果、お前たち人間は物質にのみ依存している。従って、それ以上の生命的|飛《ひ》躍《やく》を遂げないと判明した。これ以上の情報収集は無意味となった」  あまりの事態に僕は愕《がく》然《ぜん》としかけた。こんなところで僕が人間の代表として立っていないといけないとは。  時間が欲しい。この黒凌央を言いくるめることを考えつく時間が。 「放っておいてくれるわけにはいかないのか? 僕らなんてちっぽけなものなんだろう?」 「邪《じゃ》魔《ま》だ」  黒凌央は当然のように、 「燃《ねん》料《りょう》世界に亀《き》裂《れつ》を作った�漂流者�は大それた計画を持っていた。我らの燃料をこの世界において恒久使用するつもりだ。放置できない」  無《む》機《き》質《しつ》な目が四人の少女に向けられた。 「お前たちは物質世界のエネルギー化を阻害する存在」  黒凌央はわずらわしそうに四人を見て、最後に僕を見つめた。 「お前たちは我らにとって目障りである。�漂流者�の意図に沿って行動している。よって、排除する」 「待ってくれよ!」  僕の叫びは何の効果ももたらさなかった。 「待てない」  黒凌央は再び手をかざした。彼女の使用するエネルギー、EOSの輝《かがや》きが収束していく。 「まだ」  凌央も同じ反応を見せた。青白い輝きが小《こ》柄《がら》な身体《からだ》を包み込むが、黒凌央は冷淡に繰《く》り返した。 「待てない」  そしてまたもや、ピンク色の光流と爆《ばく》炎《えん》が僕たちを襲《おそ》った。先ほどと同じだ。僕らを包むようにEOSの光が押し寄せて、弾《はじ》かれるように脇《わき》に流れていく。凌央がちょうど僕たちを保《ほ》護《ご》するような障《しょう》壁《へき》を張ってくれている。だが、残っていた館《やかた》の半分がこの一《いち》撃《げき》で崩《ほう》壊《かい》した。残《ざん》骸《がい》がモザイク状に分解し揮発していく様《よう》子《す》が、かろうじて目に映る。 「凌央《りょう》!」  そう叫んだのは巴《ともえ》だった。顔をやや青白くさせ、両手を握りしめながら、 「秀《ひで》明《あき》さん! わたしたちにできることはないんですの? このままでは凌央が!」  解《わか》っていた。凌央の青い光と黒凌央の蛍光ピンク、押されているのは明らかに僕たちの凌央だった。光と光のぶつかり合いはマゼンタピンクの優《ゆう》勢《せい》だ。凌央のおかげで接触は免れていたものの、強力な波動が僕の身体《からだ》を震《ふる》わせている。黒凌央の放つEOSの光に触れたら、僕もこの館《やかた》と同じ運命を辿《たど》るだろう。 「秀明さん!」  巴が僕の名を呼んでいる。僕は何かできないかと視《し》線《せん》をあちこちにやった。 「ひえー……」  泣き顔の埜《の》々《の》香《か》をあろえが抱きしめてやっている。そのあろえもギュッと目を閉じたまま祈るように、 「だいじょうぶだよー。だいじょうぶ」 「ええいっ! やめんか、キミっ!」  琴《こと》梨《り》は床《ゆか》に落ちていた屋根の破片を拾って黒凌央に投げつけたが、マゼンタの奔《ほん》流《りゅう》に触れた瞬《しゅん》間《かん》に蒸発するので効果はない。  巴が必死の表情で、 「地下室に行けば……、わたしたちがDマニューバをつければ、手助けできるかもしれません。どうにかして行くのですわ!」 『不可能です』  ガニメデが悄《しょう》然《ぜん》と回答した。 『ニセ凌央さんの一次|攻《こう》撃《げき》で地下への階段が埋まっておりますし、凌央さんが展開する障《しょう》壁《へき》を越えたらその時点でアウトです。分解されます』 「床を掘ってでも地下室にいくのです! ガニメーデス、あなたに掘《くっ》削《さく》機《き》能《のう》はついてないのですかっ!」 『このマニピユレータは精密作業用でして、土木作業には不向きですが……やってはみましょう。どのみち、このままでは御《お》陀《だ》仏《ぶつ》ですのでね』  猛然と床をかき出したガニメデだったが、いかにもやるせない。一メートル掘るのに丸一日かかりそうなペースだった。 「…………」  ぶつかり合う光がパチパチと爆ぜて火花を散らしている。勢いよく飛ばされているのは青白い光がほとんどだ。左右に渦巻くピンク色の流れが、刻《こく》々《こく》と色《いろ》濃《こ》く目にはえるようになってきた。  ふと、目の前をひらひらしたものが掠《かす》めた。凌央が着ている服の切れ端だ。長い髪をまとめるリボンが、徐々にズタズタになっていく様《よう》子《す》が見える。襲《おそ》いくる黒《くろ》凌央《りょう》の攻《こう》撃《げき》が凌央の障《しょう》壁《へき》を浸食しているのだ。  不意に、急《きゅう》激《げき》に、胸が熱《あつ》くなった。  凌央は人間ではなく、この世界にやってきた高次元世界の斥《せっ》候《こう》だという。同じ世界から来た黒凌央は僕たちを消そうとしている。それが決定だからという理由だ。  なのに凌央は指示に背《そむ》き、僕たちを守ってくれている。「なぜか?」なんてことを僕は思いもしなかった。そう、彼女ならそうするに違いない。いいや、僕やガニメデだってそうだし、あろえや埜《の》々《の》香《か》や琴《こと》梨《り》や巴《ともえ》が今の凌央と同じ立場だったとしたら、やはり同じことをする。  あれはいつのことだったろう。EOSに乗っ取られた幼稚園バスを救ったとき、僕は凌央のほのかな微笑を見たように思った。  守るべきものはみんなの笑顔《えがお》だ。ちょっとしたときに小さく笑いあえるような、そんな世界のことだ。 「…………」  自分の分身のような黒凌央と対《たい》峙《じ》し続けていた凌央が、すっとこちらを振り返った。  髪が激《はげ》しく舞《ま》っているせいで顔全体を見ることはできない。しかし、二つの瞳《ひとみ》の中に、今までにない感情が明滅しているのを僕は感じた。  まるで、何かを詫《わ》びているような色だ。  ピンク色の奔《ほん》流《りゅう》は今や凌央ごと僕たちを飲み込もうとしていた。埜々香を抱きしめるあろえの肩に琴梨が片手を置いた。持っていたセメントの破片を投げ捨て、 「博士がいてくれたらなあー」  と言って天を仰ぐ。  僕はいつしか腕にしがみついていた巴を引き寄せていた。凌央の背中を涙目で見つめる巴はまるで気づいていないが、僕にできそうなことはもうこれくらいしかない。  凌央の青い輝《かがや》きはいよいよ薄《うす》れ、EOSのマゼンタ光が視界のすべてに迫りつつあった。  僕は目を閉じ、ただ巴の震《ふる》える身体《からだ》を抱きしめた。  その時──  どこかすぐ近くで、巨大な爆《ばく》音《おん》が鳴《な》り響《ひび》いた。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり] 「……ん。……ちゃん!」  耳の奥がキンキンと鳴っている。誰《だれ》かが誰かを呼んでいるような声もする。  よく聞き取れない。どうしてこんなに暗いのかと考えて、僕は自分が目をつむったままでいることを思い出した。ゆっくりと目を開けてみる。  もうもうとした煙が周囲一体に立ち上っていた。不《ふ》思《し》議《ぎ》なことに、妙な懐《なつ》かしさを覚える煙もあったもので、何かが普通に燃《も》えたような、焦げたような香りがするのがその理由か。蛍光ピンクとも青白い輝《かがや》きとも無《む》縁《えん》の煙。 「え?」  巴《ともえ》が僕の腕の中から顔を上げた。 「どうなったのですか? これは……わたしたちは助かったのでしょうか……?」  むせ返るような煙が風に流されてたなびいている。もう館《やかた》はないに等しかった。天《てん》井《じょう》と壁《かべ》はどこかに吹っ飛び、煙の隙《すき》間《ま》から青い空が見える。ピンク色の光はどこにもない。  黒《くろ》凌央《りょう》の攻《こう》撃《げき》がやんでいた。 「けほけほ」  咳《せ》き込みながら琴《こと》梨《り》があろえと埜《の》々《の》香《か》を抱えるようにしてやって来た。 「やっ、ひーくんと巴も無事だねっ。よかったよ。でも、この煙はなんだろねっ。あっ、そうだ、凌央っ。凌央はどこだいっ!」  どうなったんだ? なんで僕たちはどうにもなっていないのだろう。まさか凌央が……。  サアアっと強い春風が吹き、焦げ臭《くさ》い白煙を散らすように流してくれた。琴梨と巴が同時に叫ぶ。 「凌央!」  凌央の後ろ姿が見えた。棒立ちで髪は乱れ放題、服のあちこちに裂け目を作っていたが、しっかりと自分の足で立っている。  その凌央の隣《となり》に、一《ひと》際《きわ》背の高い人間が樹《じゅ》木《もく》のように直立していて、それが誰《だれ》かと確《かく》認《にん》して僕が言う前に、 「お爺《じい》ちゃん!」  李《り》里《り》が飛び込んできた。  薄《うす》れかけた煙の外から息せき切って走ってきた僕の妹は、 「どうなってんのよ? 屋《や》敷《しき》が爆《ばく》発《はつ》しちゃって、慌てて戻ってきたら変な光がバチバチいってて、全然近づけなくて困ってたらまた爆発しちゃって、もう家がボロボロで泣きそうなんだけど、でもみんな生きてんのね? おまけにお爺ちゃんも帰ってきてるし、それから、あの娘《こ》は誰? でもってあの犬は何?」  爺さん? 犬? 僕がとっさに思ったのは、何から驚《おどろ》こうかってことだった。 「直《じか》に会うのは久しぶりだな。秀《ひで》明《あき》」  いつかのような精神波ではなく、ちゃんとした声が聞こえた。凌央の隣でこっちを振り向いているシワ深い顔は、我が祖父の年《ねん》輪《りん》を刻んだもので間違いがなかった。  ここはこう言うしかない。 「爺さん!」 「息《そく》災《さい》か、秀《ひで》明《あき》。李《り》里《り》もな。兄妹|揃《そろ》っているとは思わなかったが、まあよいだろう。些《さ》末《まつ》な問題だ。ところで、私は間に合ったようだな。よくやってくれた、秀明。必要なものは時間のみだったのでな」  爺《じい》さんは僕にそう言うと、ゆっくりと前に向き直った。僕もそっちを見る。かつて玄関口があった位置に彼女はまだ立っていた。 「…………」  黒い凌央《りょう》は無傷で……いや、傷ついていたとしてもたいした傷ではないはずだ。しかし黒凌央の顔に浮いているのは紛《まぎ》れもない驚《きょう》愕《がく》の表情だった。 「�漂流者�」  黒凌央は自分の足もとを見つめながら、 「これ[#「これ」に傍点]はお前の仕《し》業《わざ》か。この物体を生成したのは、お前だと言うのか」 「その通りだとも」  爺さんの低い声は誰《だれ》の耳にもよく通ったことだろう。こうして直《じか》に顔を合わせるのは一年ぶり以上だというのに、爺さんは僕よりも黒凌央と会話することが楽しいとばかりに、重ねて言った。 「それは、もともとEOSとして存在していた。物質界で暮らすには少々不都合でな。そのため、私が工作を施《ほどこ》した」 「あ……っ」  埜《の》々《の》香《か》が小さい声を上げ、琴《こと》梨《り》の手をほどくようにしてまろび出た。  黒《くろ》凌央《りょう》の片足首に白い犬が噛《か》みついている。大人《おとな》の狼《おかみ》ほどもある巨体だったが、額《ひたい》の星マークを見忘れるわけはない。 「ぴょろすけーっ!」  埜々香の声を聞くやいなや、その犬の身体《からだ》が縮《ちぢ》み始めた。見るまに小さな子犬の姿に変化していく。埜々香が拾ってきて、実はEOSだったことが判明した子犬。幽体みたいな姿で一時|帰《き》還《かん》した爺《じい》さんに伴われ、他次元のどこかに旅立った、あのぴょろすけだ。  子犬に噛まれている黒凌央の足首が輝《かがや》くモザイクとなってぼやけている。EOSが崩《ほう》壊《かい》していく中途過程によく似ていた。 「わん」  子犬に戻ったぴょろすけは黒凌央の足首から顎《あご》を外し、屈《かが》み込む埜々香に顔を向けて嬉《うれ》しそうに鳴くと、ちぎれそうな勢いで尻尾《しっぽ》を振った。ぴよんと跳ねて拾い主の胸に飛び込んでいく。  抱きしめる埜々香の手の中でふんふんと鼻を鳴らし、ぺろりと飼い主の頬《ほお》を舐《な》める。  ぼやけていた足はすぐに復活していたが、立ちつくす黒凌央は凝《ぎょう》然《ぜん》として埜々香のつむじと、変化したぴょろすけを見下ろしていた。  黒凌央は魂《たましい》を抜かれたように、口を半開きにして硬直している。 「おい、爺さん」  僕は目を細める祖父に、 「説明してくれよ。いったい何がどうなってるんだ?」  さっきまで冷然としていた恐るべき黒凌央が、敵意を忘れ去ったように唖《あ》然《ぜん》としているのはどうしてなんだ? 「あの者ならば、しばらくはだいじょうぶだ」  爺さんは落ち着き払った口《く》調《ちょう》で、 「あの者たちは驚《おどろ》くことに慣《な》れていないのだ。いま驚いている最中のようだからな、当分は攻《こう》撃《げき》してくることもなかろう。なに、礼なら埜々香の子犬に言うべきだ。しかし帰還が間一髪のタイミングになったことは、お前たちに詫《わ》びるべきであろう」  爺さんは埜々香に孫を見る目を向けて、 「次元の狭《はざ》間《ま》から実体を持ってこの物質空間に戻るには天文学的なエネルギーが必要だ。しかし当てはあった。そこにいるもう一人の凌央と、お前のよく知る凌央、二人が次元エネルギーをぶつけ合えば莫《ばく》大《だい》なパワーが生まれ出る。次元に亀《き》裂《れつ》を生むような、な。私が帰還するには双方の生むエネルギーが理《り》論《ろん》値《ち》になるまで待たねばならなかったのだ。危ない目に遭わせて悪かった。だが、お前たちなら安心だと私は確《かく》信《しん》していた」 「ぴょろすけに礼って?」と僕。 「見かけは前と一《いっ》緒《しょ》だが、今はEOSとこの世界の物質との混成生物になっている。私はEOSの意志エネルギーを逆方向に作用させ、物質と融《ゆう》合《ごう》させることに成功した。それはこの世界でもEOSの世界のものでもない、新しい生命体と言える」  爺《じい》さんは黒《くろ》凌央《りょう》へ言葉を投げた。 「物質はエネルギー変換を待つだけではない。エネルギーから物質を生み出すことも出来る。それは我々が物質によって構成されているからだ。物質を構成要素としない世界において、高次元エネルギー生体として存在するお前たちには出来ない芸当だ」  黒凌央はようやく顔を上げた。 「それをお前が成したというのか、�漂流者�」 「人間が、だ。物質とエネルギーは等価だ。どちらが高次とも言えない。お前たちと私たちはただ別の世界にいる。それだけだ」 『博士っ!』  転がるようにガニメデがやって来た。 『EOSとは何なのですか? 高次元存在の燃《ねん》料《りょう》とこちらのかたは呼びましたが、博士、あなたの言うEOSの意志エネルギーとは?』 「EOSとは意志を持つエネルギーだ。たとえば、お前の意《い》識《しき》のような」 『それは、まさか……』  ガニメデの声が震《ふる》えた。 「そうだ。現在の地球科学レベルでは人工知能の実現にはほど遠い。にもかかわらず、お前のような意識を持つ機《き》械《かい》知性が存在するのは何故《なぜ》だと思うのだ。EOSの意志エネルギーを利用して私がお前に与えたからだ。いま、封印を解こう」  爺さんは数字とアルファベットからなる言葉を長々と口にした。その途《と》端《たん》、 『おお……! 閉《へい》鎖《さ》されていたメモリーブロックが解放されました。なんと、私の本体の中にも<<核>>がある。私の意識の元となっているのはこれだったのですね? カサンドラがこれに反応しなかったのは……、ああ、そうでしたか。これだけはマスクするようにプログラムされていたからですね……』 「この通り、EOSには様々な利用価値がある。もう『evil ones species』とは言えんな。『energy of space-time continuum』あたりに変更するか」 「そんなもん、どっちでもいいさ」  僕は懸《けん》案《あん》を口にした。 「それより爺さん、凌央のことなんだけど」  目をやると、凌央の脇《わき》に琴《こと》梨《り》とあろえが立ってニギニギしく声をかけていた。 「だいじょうぶ、凌央ちゃん? ケガない?」 「はっははっ。今晩は凌央の好きなオカズにしようっ! あたしはオムライスがいいな!」 「凌央《りょう》が最初に私のもとを訪れたとき」  爺《じい》さんは語り始めた。 「彼女は自分の正体と任務についてすべてを明かしてくれた。その時の私が感じた学術的感動は説明しがたい。数十年ぶりに年《とし》甲《が》斐《い》もなく興《こう》奮《ふん》した」  異次元から使者が来たら、確《たし》かに感動してもいいかな。 「初めは凌央と二人でEOSを撃《げき》退《たい》していたものだ。彼女の助力を得て、サポートシステムとしてガニメーデスとカサンドラを作り上げた。だが、それだけでは不便するようになったため、対EOS能力を四人に与えたのだ。もっとも、与えたのは凌央だが」  巴《ともえ》が思わずといった声で、 「それって、もしやわたしたちの持ち物に偶然宿ったのではなくて、わたしたちは選ばれたのですか?」 「正解だ、巴。凌央が選んだ。お前たちを選んだ理由は私も知らん。おそらくだが、友人になってみたい人間を選定したのではないか。お前たちを見ているとそう思える」  かくん、と口を開ける巴だった。ぴょろすけに視《し》線《せん》を突き刺している黒凌央とそっくりの表情だ。 「あの娘《こ》が攻撃を止めたのはぴょろすけのおかげか……」  呟《つぶや》いた僕に、爺さんが言った。 「秀《ひで》明《あき》よ、もしお前が流《りゅう》暢《ちょう》に言葉を話す魚を見たとしたらどうする」 「驚《おどろ》くよ」 「同じことだ。彼女は驚いたのだ。埜《の》々《の》香《か》の犬を見てな。彼女たちからすればこの世の人間など、我々が魚に思うよりもよほど劣った存在であったろう。物質とEOSの融《ゆう》合《ごう》を可能とするはずはなかった」  黒い凌央は大きく見開いた目で、まだぴょろすけとそれに頬《ほお》ずりする埜々香を凝《ぎょう》視《し》していた。 「今やあの犬の知能は人間の平均を上回る。言葉を解するのは勿《もち》論《ろん》、精神感応能力を持ち、人の心を理解する。また半分がEOSであることから自在に自分の身体《からだ》を制御、変形できる。たとえば羽を生《は》やして空を飛ぶことも可能だ。もしかしたら不老不死に到達させてしまったかもしれんが、ふむ、それは埜々香の意思次第であろう」  僕は今まで見てきたEOSが実に様々な形態を持っていたことを思い出した。人間と意志を通じ合って仲良くできる元EOS、ぴょろすけはそういうものになったのか。 「それを私が成し遂げたのだ。驚いてもらわないと戻ってきた甲斐がないというものだ」  爺さんは胸を張った。 「この世から姿を消している間、私は異なる次元の異なる時空間をさまよい、数多くの世界を見た。特に凌央たちの世界は筆《ひつ》舌《ぜつ》に尽くしがたい風変わりな世界だった。そこには時間も空間もなく、ただエネルギーだけがあった。高次元世界で高次に変容していた私になら詳しく解説できただろうが、物質界に戻れば思考も物質に依存したものとなる」  にやりと笑う爺《じい》さんだった。 「だがそれは彼女たちも同じだ。いくら高次元の住人とはいえ、この世に来ればこの世に準拠した形を取らざるを得ない。我々は魚より少しは進化した動物だが、水中を魚よりうまく泳ぐことはできない。だからこそ手の打ちようもあった」  爺さんは慈《いつく》しむ目を凌央《りょう》の後ろ姿に注いだ。 「言うならば彼女は泳ぎを覚えたのだ。泳ぐことに楽しみを見いだし、その世界と友人たちを守《しゅ》護《ご》したいと思ったのだ。そうさせたのは、秀《ひで》明《あき》、おまえであったかもしれんな」 「僕は何もしてないよ。ただ一《いっ》緒《しょ》に暮らしてただけだよ。あろえや巴《ともえ》たちのほうが……」 「いいえ!」  巴がぶんぶんと首を振った。 「そんなことはありません。あなたは、その……、何もしてないなんてことは、ないのです!」  僕が咲き乱れる巴の髪を見下ろしていると、つんつんと背中をつつかれた。 「あのさぁ」  李《り》里《り》だった。呆《あき》れたような顔で、人差し指を回し、 「いつまでそうしてんの? ふ・た・り・と・も」 「え?」  僕と巴は顔を見合わせ、ようやく気づいた。  僕はずっと巴を抱きしめていて、巴も僕の胸にすがりついている。二度目の爆《ばく》発《はつ》前から今まで、ずっと僕たちがその体勢でいたことに。 「ひゃぁっ!」  背泳ぎのスタートを切るように巴は跳びすさった。 「違います! これは不可抗力……いえ、不適切……いえ、状況に流され……いえ、とにかくイイワケするようなことでは!」 「そんな慌てなくてもいいわよ。別にあたし、どうだっていいしさ」  李里は肩をすくめ、僕にニッと笑いかけた。爺さんまでが孫そっくりの笑い方で、 「よいかもしれんな。巴、お前を見ていると婆《ばあ》さんの若い頃《ころ》を思い出す……」  そんな遠い目をされても、どうリアクションしていいか迷う。李里と同じく爺さんももっと場の空気を考えて欲しい。  軌道修正も僕の役目だった。 「爺さん、あの黒いほうの凌央《りょう》をどうする? これで終わりってわけにはいかないのかな?」 「私の屋《や》敷《しき》を粉々にしてくれた輩《やから》だ。もちろん放っておくつもりはない」 「いや、そんなことじゃなくてさ」 「解《わか》っている。真正面から戦えば勝ち目はない。凌央《りょう》の力も尽きた頃《ころ》だろう。だが心配するな。停戦の条件は揃《そろ》っているのだ」  爺《じい》さんは悠《ゆう》然《ぜん》と瓦《が》礫《れき》の上を歩き出した。僕と巴《ともえ》、李《り》里《り》も後を追う。色違いの凌央の前で爺さんは立ち止まった。  ぴょろすけを穴の開くほど見つめていた黒い凌央が顔を上げ、ほんの少し目をすがめて爺さんを睨《にら》んだ。 「決定は覆《くつがえ》らないぞ、�漂流者�。お前は次元を超えたことで物質に不相応な知恵をつけたかもしれん。だがお前ただ一人だ。あまたある人間のたった一人にすぎない」  元の無感情な声に戻っている。 「この世界の物質をすべて燃《ねん》料《りょう》化《か》する。物質に毒された我らの一部がどう抵抗しようと、我らの総意は逆行しない」 「だが、待つことはできるだろう」  爺さんは孫に言うような口《く》調《ちょう》で、 「多くは望まん。我々に必要なものは時間のみだ。私はEOSと物質を融《ゆう》合《ごう》させることで新たな生命の可能性を示した」 「認めよう」  黒《くろ》凌央《りょう》は抑《よく》揚《よう》のない声で言った。爺《じい》さんは満足そうに首《しゅ》肯《こう》し、 「お前たちは我々人間に可能性がないと判断したかもしれん。高次元エネルギー存在であるお前たち、物質であることを軽視する世界の住人には及びもつかないだろう。私たちは私たちで可能性を秘めている。人間は人聞以上のものにもなれる。それはあの子犬を見たお前には解《わか》るのではないか?」  黒凌央は考え込むような間を空けてから、 「認めよう」  しぶしぶといった感じでうなずく。爺さんはゆったりと、 「ならば話は早い。少しだけ待ってもらいたいのだ。我々が次なるステップへと至るまで、いいや、そうなる可能性が完全にゼロであると判定されるまででいい。お前たちには簡《かん》単《たん》なことだ」  高次元から来た刺《し》客《かく》は迷わなかった。 「よかろう。しかし�漂流者�、お前の言葉を信用するわけにはいかない。物質の身でありながら次元を超えた者を人間と称すべきではないからだ。いかほどの時を待てばよいのか、他《ほか》の人間の答えを聞きたい」  爺さんは会心の笑《え》みを浮かべた。 「では秀《ひで》明《あき》、お前が言ってやれ。我々がどれほどの時を要するか、人類の代表として告げるのだ」  これだったのか、と僕は思った。爺さんのかけてきた不意打ちのような電話。無《ぶ》骨《こつ》な受話器から流れ出た説明不足のセリフが脳裏に蘇《よみがえ》り、つられたように口が開いていた。 「五十|億《おく》年」  僕が発した言葉に、黒凌央はわずかに目を見張った。 「それだけか」  彼女は呟《つぶや》くように言い、挑むような目つきで僕を見上げた。 「それはこの惑星の公転周期を元にしたものでよいのだな」 「えーと、うん。地球が太陽を一周するのが一年……だよな」 「よいだろう」  黒凌央は深く顎《あご》を引き、 「たったの五十億年か。大きく出たな、人間よ。我々は時間を重視しないが、そんな瞬《またた》くような時間で幾ばくの変化を得るか、我らとしても注目すべき事柄だ。よいな、これは約定だ。その時、お前たちが未《いま》だ変化せざれば、今度こそ我らはこの物質界を新たな燃《ねん》料《りょう》庫《こ》と化す」 「かまわんよ」  平然と言ったのは爺さんである。余《よ》裕《ゆう》綽《しゃく》々《しゃく》に、 「五十億年後、我々がまだこうして地べたを這《は》いずってたなら、容《よう》赦《しゃ》なく鉄《てっ》槌《つい》を下せばいい。私も抵抗せん」  しようにも出来ないな。僕だってそうだ。それまで生き残っている自信なんかない。  だから僕もそれ以上何も言わなかった。黒《くろ》凌央《りょう》はとんでもない勘違いをしているようだが、あえて人間の寿命について教えてやろうとは僕も爺《じい》さんもしなかった。  黒凌央は真《ま》面《じ》目《め》な顔で、 「ただし条件がある。我らの燃《ねん》料《りょう》庫《こ》に開けられたヒビを放置するわけにはいかない。お前たちがEOSと呼ぶエネルギー漏《ろう》洩《えい》状態を是正せねばならない。この物質界から開けられた穴はこちら側から閉じねばならない。お前のしたことだ、�漂流者�。同様の手順を用いて完了せよ」 「もとより、そのつもりで帰ってきたからな。と言うよりも私にしか出来ないことだ。お前たちにも無理なのだろう? だからこそ強硬手段に出たわけだ。物質界をあまり軽視せんほうがいいと忠告しておく」  爺さんは自信に満ちた笑《え》みを浮かべ、 「こちらからも条件を提示しよう。まずお前が破《は》壊《かい》した私の館《やかた》を元通りに戻すのだ。多次元時空振動装置を再開発せねばならんのだが、この有《あり》様《さま》ではいかんともしがたい」 「たやすいことだ」  黒凌央が攻《こう》撃《げき》意図を解いたのを見て取り、やっと僕は肩の力を抜いた。まさか高次元から来た使者との争いが話し合いで解決するとは思わなかったが、これでどうにか安心できた。  僕は館の残《ざん》骸《がい》を踏みしめながら、最大の功労者のもとへ向かう。 「凌央」  僕の呼びかけに、顔をススだらけにした無表情が振り返った。 「…………」  凌央は何も言わない。じっと僕を見上げたのみである。  そんな凌央の手をあろえが握ってニコニコしている。琴《こと》梨《り》がぽんぽんと頭を叩《たた》くたびにホコリが舞《ま》い上がった。ぴょろすけを抱えた埜《の》々《の》香《か》がつまずきながらやってきて、巴《ともえ》と李《り》里《り》も凌央の正面に回った。  でも凌央は、やはり何も言わなかった。ただ髪を微《そよ》風《かぜ》に任せてゆらゆらさせている。ぼんやりした目で僕たちを見回し、それから不意に顔を上向けて、 「……くしゅ」  小さなクシャミを漏らした。その時、唇から覗《のぞ》いた八《や》重《え》歯《ば》が、まるで微笑の結果のように見えた。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  僕たちが見守る中、館はほとんど一《いっ》瞬《しゅん》で瓦《が》礫《れき》の山から元の偉容を取り戻した。  黒《くろ》凌央《りょう》が手をかざして例の蛍光ピンクを振りまいたと思ったら、録《ろく》画《が》した映像を逆回しするようにたちまち再建されていく、魔《ま》法《ほう》に等しかった。  爺《じい》さんによると、EOSのエネルギーを有効活用すれば元素変換も物体|操《そう》作《さ》もお茶の子だという。 「それだけではない」  爺さんは説明を加えた。 「物質を変換効率百パーセントで熱《ねつ》や光にできる。実用化できれば地上のエネルギー問題は完全に解決するだろう。ガニメーデスのような人工知能の基《き》盤《ばん》ともなりえ、また物質生命と融《ゆう》合《ごう》すればあの子犬のような能力を手に出来る。便利この上ない」  しかし、その便利なエネルギー源を人類のものにするにはまだ時間がかかりそうだ。なぜなら黒凌央が許さなかったから。 「我らのものだ。不正使用は許されない」  高次元存在にしてはケチくさいと思ったが、黒凌央はどこまでも真《ま》面《じ》目《め》に言い、爺さんがうなずいた。 「いくら高次のエネルギー存在であろうと、この世界で物質化すれば人間と考え方もそう変わらなくなる。物質の限界に縛《しば》られるらしいな。おかげで話もできるというものだ」  黒凌央は爺さんの言葉を無視し、 「燃《ねん》料《りょう》庫《こ》の穴を塞《ふさ》ぐのにどれだけかかるか?」 「まあ、一週間といったところだな。装置の製作にかかる時間がそれくらいだ」 「その約定を違《たが》えるな」  黒凌央は重々しく命じ、さらに凌央を指差した。 「作業の終了を確《かく》認《にん》しだい、元いた次元に戻る。あの我らの一部も連れて帰る」 「ええーっ」  声を上げたのはあろえだ。 「ダメダメだよ、凌央ちゃんはずっといなよ。でないと寂しい寂しいよ」  唇を尖《とが》らせて凌央の手を両手で握る。巴《ともえ》も荷担する気だろう、 「そうですわ。無理に帰ることはありません、あなた一人でお帰りください」  凌央と黒凌央の間に立ちはだかった。 「凌央はどうしたいんだいっ?」  と言ったのは琴《こと》梨《り》だ。普《ふ》段《だん》より柔らかめの笑顔《えがお》で、 「残るほうがいいならあたしも頑張るよ!」 「あ、あの……あの……」  埜《の》々《の》香《か》がおずおずと凌央の服の端をつかみ、その足先でぴょろすけが理知的な瞳《ひとみ》で飼い主を見上げ、「わん」と鳴く。 「…………」  無言の凌央《りょう》に代わって、 「だめだ」  黒凌央が苛《いら》立《だ》たしげに、 「これ以上我らの一部をここに置いてはおけない。物質化が進行しすぎている。このままでは我らの一部ではなくなってしまう」  李《り》里《り》が首を傾《かし》げながら、 「よく解《わか》んないけど、放っておいたらこの娘《こ》はこのまま人間になっちゃうってこと?」  それには答えず、黒凌央は爺《じい》さんを睨《にら》んだ。 「微々たるものとはいえ、お前の細工した燃《ねん》料《りょう》も返してもらう」 「ふむ」  爺さんは黒凌央を熱《ねっ》心《しん》に撮《さつ》影《えい》している羊型ぬいぐるみを見下ろした。 「ガニメーデス、どうやらお前ともお別れらしい」 『何ですとっ!』  ぴょんと飛び上がったガニメデだったが、 『ああ……なるほど。私の意《い》識《しき》の源はEOSなのでしたな。そちらの2Pカラー凌央さんの言い分も理解できます』 「そんなぁ」  またしてもあろえが泣きそうな声を出して、土まみれのガニメデを抱き上げた。 「ガーくん、行っちゃやだよ」 『感動です。ですがご安心ください。たとえ私の意識がなくなろうとも、お嬢《じょう》さまがたの可《か》憐《れん》な映像データ集は永遠です。そうですな、秀《ひで》明《あき》さん、あなたに譲《じょう》与《よ》しますよ。存分にお楽しみくださり、あなた亡き後も後世に伝えてください』  爺さんがあろえの髪に手を置いた。 「あろえ、ガニメーデスの意識は失《う》せるが、こやつが学習した記《き》憶《おく》データは人工意識開発に有効だ。完全に元通りとはいかんが、出来のいいロボットとして復活することもあろう」  あろえの手の中で、ガニメデは両眼をくるくると回している。邪悪なぬいぐるみスタイルがこの時ばかりはしょんぼりしているように見えた。  僕も黙《だま》っていられなくなった。 「爺さん、凌央もガニメデもこのままにしておくわけにはいかないのか? あの黒凌央を言いくるめるとかなんとかできないかな」 「多くを望めば、そのぶん代《だい》償《しょう》も大きくなる」  爺さんは微笑しつつ、 「私たちに必要なものは時間だ。充分な時間さえあれば、あらゆることは何とかなる。今ばかりはあの者に従っておこう。充分な譲《じょう》歩《ほ》を引き出せたのだから」  黒《くろ》凌央《りょう》は五十|億《おく》年の保留期間を僕たちにくれた。この世がまるごとEOS化することを考えると、凌央が仲間のもとに戻ったり、ガニメデがただのぬいぐるみになるくらいは安いものかもしれない。だからと言って、こんなふうな別れは全然僕の趣《しゅ》味《み》じゃなかった。  そしてそれは、あろえや巴《ともえ》や琴《こと》梨《り》や埜《の》々《の》香《か》とも共通する思いでもあった。そのくらいのことは顔を見れば解《わか》る。  いくら僕でも。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  一週間は瞬《またた》く間に過ぎていった。  爺《じい》さんは地下の工作室でひたすら変な機《き》械《かい》を組み上げることに精を出し、それを監《かん》視《し》するように黒凌央がずっと付き従っていた。アシスタントのように使われていることに彼女は気づいていないようだ。  ガニメデは一日おきに寝泊まりする部屋を変え、五人の少女たちからかつてないほどの歓待を受けていた。 『残り時間わずかというところで、ようやく天国が下りてきましたよ。皆さん私を抱きしめて眠ってくれるのです! 長年の夢がここに結実しました。思い残すことはもう、いや、ないということにしておきましょう!』  凌央のそばにも、常に他《ほか》の四人のうち誰《だれ》かがいた。  泣き笑いの表情で抱きしめてくるあろえに小さくうなずいたり、涙を浮かべる埜々香の頭を撫《な》でてやったり、琴梨と一《いっ》緒《しょ》にジャガイモの皮むきをしたり、何と言っていいのか解らない風《ふ》情《ぜい》の巴と向かい合って沈《ちん》黙《もく》していたりしている。  実家に帰るのを中止した李《り》里《り》もいる。休みの間中この屋《や》敷《しき》にいることにした妹は、やや複雑な顔つきで家の中をうろつきながら、そんな彼女たちを眺めていた。  そして僕も、どうにかできないかなと思いながら、思うだけで時が過ぎていくに任せていた。ガニメデの秘蔵データなんかもらっても嬉《うれ》しくはない。その中にいる凌央は過去の彼女の姿であって、現在以降のものではないからだ。  しかし無情にも、課《か》せられたタイムリミットがやってきた。 [#ここから7字下げ] ☆ ☆ ☆ [#ここで字下げ終わり]  黒凌央が来てからちょうど一週間後。  僕たちは地下室に勢《せい》揃《ぞろ》いしていた。  工作台の上に二抱えもありそうな奇妙な機械が鎮《ちん》座《ざ》して、ダイオードや豆球を点滅させ、何を表しているのかさっぱり解らないがゲージの針をぴくぴくさせている。去年の正月に僕が見たのと同じ装置だ。  黒《くろ》凌央《りょう》を助手のように脇《わき》に従えた爺《じい》さんが言った。 「これを起動させれば次元の亀《き》裂《れつ》は収まり、EOSがこちらの世界に染み出すことは永遠になくなる」  この一週間、ほぼ不眠不休のはずだが、爺さんの精《せい》悍《かん》な顔は気力に満《み》ち溢《あふ》れていた。 「思えばいい経《けい》験《けん》をしたものだ。次元の狭《はざ》間《ま》を漂っている問、私の意《い》識《しき》レベルはホモサピエンスを超越していた。お前たちもEOSと戦うことで何かを得たと信じる」 「ご託《たく》はいい」  黒凌央がどこか疲労した無表情で、 「早く実行しろ。これ以上この世界で物質化し続けたくはない」  ふん、と爺さんは鼻を鳴らし、 「秀《ひで》明《あき》、お前がスイッチを入れるのだ。すべてはあの時から始まった。幕引きもまたお前の手こそがふさわしい」  あまりしたくはなかったけど、僕は機《き》械《かい》のもとに行った。次元がどうとかというような大層なものにしては、そのスイッチは廊下の電灯をつけるために押すのと変わりないシロモノだ。  全員の顔を改めて見渡す。  ほとんどがしんみりした表情を浮かべる中で、凌央だけが無表情だった。 このスイッチを押してEOS漏れが収束し、見届けた黒《くろ》凌央《りょう》が凌央を連れ帰るまでどれだけの猶《ゆう》予《よ》が与えられるだろう。 「急げ」  黒凌央が不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに促してくる。 「秀《ひで》明《あき》」  爺《じい》さんが微笑《ほほえ》みを浮かべて僕に合図をした。爺さんはたまにこんな笑い方をする。孫を驚《おどろ》かせるイタズラを仕掛け終えた時とかに……。 「わかったよ」  僕はゆっくりと指を伸ばし、スイッチを押し込んだ。  ぶうーん、と音を立てて機《き》械《かい》が振動を始める。ランプの明滅テンポが徐々に速くなっていく。ゲージの針が左右にぶんぶん振れていた。機械を固定する台が振動でガタガタと揺れ出す。  カウントダウンのように点滅する光が既視感を覚えさせる。  あれ? いつかこんなことがあったような。そして、これから何が起こるか解《わか》っているような……。  耳もとで爺さんの声が囁《ささや》いた。 「秀明、彼女たちを頼んだぞ」 「え?」  それはどういう──?  聞き返すことはできなかった。  ドン! 「わっ」  逞《たくま》しい腕に突き飛ばされ、僕は床《ゆか》に転がった。  その瞬《しゅん》間《かん》、耐えるように震《ふる》えていた機械が限界に達したように──  爆《ばく》発《はつ》した。  威力はさほどでもない。でも、派《は》手《で》な煙を地下室に撒《ま》き散らし、奇怪な機械は跡形もなくバラバラになって吹っ飛んだ。  工作台には焦げ跡だけが残され、そして人が一人だけ消えていた。  他《ほか》の誰《だれ》でもない。爺さんがどこにもいない。 「……謀《はか》ったな。�漂流者�」  黒凌央が苦《にが》々《にが》しげに言うのに対し、答えは直接僕の頭に響《ひび》いた。いや、きっと全員の。 <<悪いな。私はまだ見ねばならぬもの、考えねばならぬことを残して戻ってきた。まだ次元の裂け目を閉ざすわけにいかん。心配はいらん。気が済んだら戻る。何年後になるかは……さて>>  微笑を含んだ悪戯《いたずら》っぽい声だった。 <<追うなら早くするがいい。もっとも、私を捕《ほ》捉《そく》する自信があるならばだが>>  黒《くろ》凌央《りょう》の眉《まゆ》がつり上がった。 「今度は逃さんぞ、�漂流者�」  凌央と同じ顔を持つ他次元人はキッとした目で空中を見据えた。 <<たった一《いっ》時《とき》の、しばしの別れだ>>  爺《じい》さんの声が遠くなる。 <<さらばだ秀《ひで》明《あき》。彼女たちを……この世界を守り……て……くれ>>  爺さんの声が完全に途《と》切《ぎ》れる寸前、黒凌央の周囲の空気が渦《うず》を巻いた。竜巻に包まれた少女の姿が空気に溶け込んでいく。  完全に消滅する前に、黒凌央はこう捨てゼリフを残した。 「�漂流者�を捕らえ、再び来る。五十|億《おく》年以内に」  煙と風が収まって地下室が平《へい》穏《おん》を取り戻した時、誰《だれ》もが茫《ぼう》然《ぜん》とあっけにとられていた。そう、まるでこうなると知っていたかのような凌央以外は。  爺さんはまた次元を超えた旅に出て、黒凌央も後を追った。残されたのは僕、それから李《り》里《り》、そして一年前に僕がこの屋《や》敷《しき》で出会ったのと同じ、五人の少女たちと一体のぬいぐるみだった。 「えーと……」  僕がそう言いかけるのと同時に、散《さん》々《ざん》聞《き》き慣《な》れた警《けい》報《ほう》が鳴り出した。 『カサンドラシステムがEOSの出現を予告しています。場所はここから南西に約十キロ』  ガニメデが感情豊かに言った。 『先ほどの博士の装置は自分を次元の彼方《かなた》に飛ばすためだけのものだったようですな。つまりEOSはあいかわらずこちらの世界にちょくちょくやって来るということです。何と言いますか、』  ガニメデはぴょんとジャンプして、凌央の腕の中に収まった。 『最初に戻ってしまいましたね。秀明さん、あなたがやって来た、その時の状態です』 「あはははっ。なるほどっ!」  琴《こと》梨《り》が埜《の》々《の》香《か》の身体《からだ》を持ち上げた。 「あわわ……?」  目をパチパチさせる埜々香だったが、あろえと巴《ともえ》の顔には徐々に理解の色が広がり、ついでに笑《え》みも加わった。 「じゃあ凌央ちゃんはどっこも行かないの?」 「ということは、わたしたちがすることは決まっておりますわね」  凌央は顔を見合わせる二人にうなずき、無言ですたすたと歩き始めた。どこに行くのかは教えられるまでもない。 「さ、みんなっ! 出動だっ」  埜《の》々《の》香《か》を持ち上げた琴《こと》梨《り》が駆け出し、その勢いで先行する凌央《りょう》の身体《からだ》を小《こ》脇《わき》に抱えた。あろえと巴《ともえ》も走り出す。  戦《せん》闘《とう》コスチュームが置いてある、ロッカールームへ。  そして、それから──  それから、数分もしないうちに、全員の乗った車は走り出していた。  一年前に屋根がなくなって以来、とうとう幌《ほろ》すらつくことのなかったいつもの故障車スレスレオープンカーだ。  ガニメデが操《そう》縦《じゅう》しているのもいつも通り、いつかは教習所に行こうと思っていたものの結局無免許のままな僕はいつものように運転席で飾りとなっていて、いつものように助手席には、巴が膝《ひざ》の上に埜々香を乗せて座っていた。  後部座席には琴梨とあろえ、凌央と李《り》里《り》がぎゅうぎゅうになって押し合いへし合いをしている。ダッシュボード上ではガニメデがレンズを回し、埜々香に抱きしめられたぴょろすけが嬉《うれ》しそうに尻尾《しっぽ》を振りながら車内をうかがっていた。  僕は顔を横向け、全員の姿を目に入れる。  巴は凛《り》々《り》しい顔で座り、埜々香は車のスピードに目を回している。あろえと琴梨は甲《こう》乙《おつ》つけがたい笑顔《えがお》で脳天気な会話をしていて、ついてきただけの李里は僕と目が合うと、顔の前でたなびく巴の髪を払いのけるようにしてニッと笑った。  凌央がまっすぐ前だけを見て髪をなびかせているのを確《かく》認《にん》して、僕も前を向いた。  爺《じい》さんが戻ってくるまで、僕が守るべきものが車の中にあり、車の外にも広がっていた。  どこかから舞《ま》い込んだ桜の花びらが頬《ほお》を掠《かす》め、今の季節を教えてくれる。  新たなスタートを切るにはふさわしすぎる、僕たちにとって二度目の春だ。  ガニメデが愉快げに告げる。 『EOS出現地点まで約五分で到着します』  あろえはスケッチブックを振りかざし、琴梨はスケボーを頭上に掲げ、埜々香はリコーダーとぴょろすけを抱きしめて、巴は肩にかけた竹刀《しない》の柄《つか》を握り直した。  凌央は無表情に、ついてきただけの李里までが大きくうなずいた。 『皆さん、準備はよろしいですか? 特に心の』  そのガニメデのセリフに、全員が答えた。 「もちろん!」 [#改ページ] あとがき代わりの思い出話 『電《でん》撃《げき》萌《もえ》王《おう》』にて長きに亘《わた》り連載させていただいていた「電撃!! イージス5」も、この巻で区切りよく終了です。初めて活字になった作品でしたので思い入れもひとしおですが、連載期間二年半近くの間、三ヶ月に一話ずつこのキャラたちを書いていると、まるでディッシュウォッシャーに洗浄される皿のごとく心が洗われるようでした。  だいだいにおいて僕の書いている話には妙にヒネクレたやつとか屁《へ》理《り》屈《くつ》野郎とかが頻《ひん》発《ぱつ》する傾向にあるのですが、この登場人物たちは全員素直でかつ脳天気。実に格好の精神安定剤となってくれました。  ところで『萌王』掲載時には第一話を除き、毎回ヒトコトコメントを載せてもらっていたのですが、ついでなのでこの場でまとめてしまいたいと思います。  さて、この二年半で自分の心中はどう変化していったのでしょうか。 『電撃萌王 vol.6』(2003年6月)  谷《たに》川《がわ》流《ながる》と申します。ところで人生で一回も食べたことがないのに勝手にアレは美味《おい》しいに違いないと思いこんでいる食物があって、僕の場合コンビーフと牛缶がそれでした。しかしこの前、ためしに買い求めて喰《く》ってみたところどちらも想像していたのとは全然別の味がしてちょっと残念に思ったんですが、そしてこれ以上この話が膨《ふく》らみようもないんですが、それはともかくとして次回もよろしくおつきあい願《ねが》えれば幸いに思います。なにとぞ。 『電撃萌王 vol.7』(2003年9月)  自転車のタイヤにぷしゅぷしゅ空気を入れているだけで運動したような気分になっている私ですが、それにしても自宅の猫はロクに動きもせず幸せそうに寝ているだけなのにどうしてあんなに元気なのだろう、きっと健康の秘《ひ》訣《けつ》は睡眠にあるに違いないと考え、ためしに一日の三分の二を眠って過ごそうと決意し布団に横たわっていたら、腹を空《す》かせた猫にビンタで起こされました。三日くらいなら猫と意《い》識《しき》が入れ替わってもいいかなあ。 『電撃萌王 vol.8』(2003年12月)  先日、「もう一年も終わりか。早いなあ」と意味もなくしみじみしていたところ、そういやこの一年でバイクに給油した記《き》憶《おく》が二回しかないことに気付いて愕《がく》然《ぜん》としました。よく考えたら隣《となり》の市の図《と》書《しょ》館《かん》に行く程度にしか使っておらず、これではバイク所持の必要性がまったくないうえに、何よりバイクさんに悪い。  でもこの時期に二《に》輪《りん》で出かけるのも寒いしな、そうだ、暖かい季節になったら遠出して、ガソリンを存分に食わせてあげよう。  と、去年も思った気がしますが。 『電撃萌王 vol.9』(2004年3月)  先日、久しぶりに学生時代のバイト仲間数人と集まる機《き》会《かい》があったのですが、当時ハメばっか外していた彼らも時を経て少しは落ち着いてるんじゃないかと思いきや、何一つ変わってないどころか暴《ぼう》走《そう》ぶりに拍車がかかってました。しかしそんな彼らの暴挙スレスレのボケに、以前と変わらず几《き》帳《ちょう》面《めん》にツッコミを入れている自分を発見したりして、まあ人間そう簡《かん》単《たん》に変わったりしないよなぁ、でもそれでいいんじゃないかなぁとか思っているうちに今年《ことし》もまた花粉症の季節が。 『電撃萌王 vol.10』(2004年6月)  谷《たに》川《がわ》です。先日、某球団ファンの友人に連れられてプロ野球のデーゲームに行ってきました。ちょっとした行楽気分を味わいつつ、ガラガラの外野スタンドでのんびり唐揚げなどを食べておりますと、いったいどっちが勝っているのか解《わか》らなくなるような乱打戦が最初から開始され、そのまま四時間以上も打ったり打たれたりの連続、帰りの電車を待つ頃《ころ》にはすでに日が暮れかかっていました。試合終了時に友人が喜んでいたので、一応応援していたほうが勝った模様です。楽しい一日でした。 『電撃萌王 vol.11』(2004年9月)  なんともありがたいことに、この『電撃!! イージス5』を文庫化していただけることになりました。望外の喜びです、  そんなわけで加筆修正作業を現在やっているところですが、ひさしぶりに第一話から読み返してみたところ、妙に懐《なつ》かしい気分に襲《おそ》われることしきりで「え? もうそんな年月が経《た》ったの?」みたいなノスタルジーを覚えます。遠い空の雲を眺めながら「そうか……」と意味なくつぶやかんばかりの勢いですが、文庫版のほうもどうぞよろしくお願《ねが》いします。ではっ。 『電撃萌王 vol.12』(2004年12月) 「おーい、ちょっと待ってくださーい」と言いたくなるほどあっさり年末になってしまい、次の年が物陰から無言で顔を覗《のぞ》かせている気《け》配《はい》にビクッとしつつ思うんですが、まるで一年の三分の二くらいを無《む》意《い》識《しき》で過ごしていたかのようなこの時間加速感覚は何なのでしょうか。おそらく地球の自転がだんだん早くなりつつあるのか、何者かにじわじわ記《き》憶《おく》を吸われているのか、あるいは単なる寝過ぎによるものか、きっと最後のが正解のような、と言いますかそれ以外はどちらでもイヤですが。 『電撃萌王 vol.13』(2005年3月)  冬になるとコタツから猫が出てこなくなるので(エサの時以外)寂しく思っている谷《たに》川《がわ》流《ながる》です。  ところで、眠っている間に夢を見るのは人間ばかりでなく動物もそうであるらしく、我が家の猫も寝言でニャゴニャゴと呟《つぶや》いている時があります。いったいどんな夢を見ているのかは解《わか》りませんが、きっと脳天気なシロモノに違いありません。もし夢の中に僕が登場していることがあるのだとしたら、その僕は猫の頭の中でどのような存在となっているか、ちょっと知りたい気分です。 『電撃萌王 vol.14』(2005年6月)  というわけで最終回です。考えてみれば第一回が03年三月でしたから、およそ二年強ほど続けさせていただいた計算ですね〜。  その間、何度もキャラたちに救われる思いをいたしました。初期設定と微妙に違う性格になってしまったキャラとか(琴《こと》梨《り》)、想定以上に動いてくれたキャラ(ガー)もいましたが、中でも巴《ともえ》、あなたには特別主演|女《じょ》優《ゆう》賞《しょう》を進呈したい。  これまで読み続けていただいた読者の方々にも感《かん》謝《しゃ》です。いずれまたどこかでお目にかかることを願《ねが》いつつ、それではっ。  ……以上を見る限り、なにやら月日の経過にアタフタしている様《よう》子《す》と、苦し紛れの猫話が目につきますね。現状を顧《かえり》みるに精神的に成長しているとは到底思えません。  ちなみに観《かん》戦《かんせん》しに行った二つの球団は一つにくっついてしまいましたし、バイクは相変わらずホコリまみれ、猫はいつものように寝転がっているのみです。  そういうわけで長いようであっというまだったこの間、さんざんお世話になりっぱなしだった方々に感謝の言葉を述べつつ、あとがきにもなっていない文章を終わりたいと思います。  このイラストがなければ僕の書くテキストなどに何の意味もなかったでしょう、後《ご》藤《とう》なお様。  ご多忙極まる中、毎回おつき合いいただいた萌王|編《へん》集《しゅう》長《ちょう》、ベンツ中《なか》山《やま》様。  初《しょ》っぱなに企画を持ってきてくれた前担当、峯《みね》様。  そして今回から担当してもらっている、三《み》木《き》様。  もちろん読んでいただいたすべての読者の方々様とこれから読んでいただけるすべての読者の方々様。  ありがとうございます。何かありましたら、次もよろしくお願《ねが》いします。  それでは、また。どこかでっ。 [#改ページ] [#改ページ]